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喫茶南国に風が吹かない日2

 昼食の後片づけを終えた長月は、用事があると言って自室へこもってしまった。一人残された私は手持無沙汰になり、昨夜長月から借りた文庫本の存在を思い出した。考えるべきことは山ほどあるが、どうにも心惹かれてしまう。

 ソファに腰かけて、読みかけのページを探す。文庫本を開くときの手の感覚は何やらしっくりきて、どこかへ行ってしまった記憶に結びつきそうな気もする。

 これからは時間の空いたときに読み進めていこう。そう心に決めて、未読の一行目に視線を滑らせる。



 成田空港から松山空港までは、格安航空で約一時間五十分のフライトだった。そこから松山駅までリムジンバスで十五分。松山駅から三津浜駅までは、四国旅客鉄道の予讃よさん線に乗って一駅だが、なにせ田舎の小さな駅のため一時間に一、二本しか各駅停車が停まらない。歩いた方が早いとも言えないところがまた田舎で、電車で四分の距離が、歩くと一時間かかってしまうので、リュックを背負いキャリーケースを引きずった亜衣は松山駅前のファストフード店でポテトを摘まみながら時間をつぶした。

 本当は松山駅から松山駅前駅まで数分歩き、そこから伊予鉄道に乗って三津まで行った方が実家のある三津浜商店街へは近いのだが、それだと運賃が三百円多くかかる。ゆえに貧乏大学生の亜衣は、自然と足を使う方を選んでしまった。

 そうしてようやく三津浜駅へ降り立ったのが午後四時前。傾き始めた真夏の太陽はそれでも依然、衰えるところを知らず、仄かに潮の香りのする故郷の町々に照りつけている。

 駅前から西へと続く愛媛県道186号線を、亜衣はキャリーケースをガラガラいわせて歩き出した。西日に向き合うような形となり、その眩しさに耐えかねて、空いている手で顔の上に影を作る。

「あっつい」

 三津浜駅から実家のある三津浜商店街までは、今日調べて初めて知ったが徒歩で二十分近くかかる。いつもは松山空港から実家まで父、明夫の車で十五分とかからず着けたのに。道中、大学やバイトの話をしつこく聞いてきた父。亜衣に彼氏ができていないか、それとなく確かめたがった父。

 その父は今、留置場にいる。アパートを訪ねてきた刑事、滝本の話によると、自宅兼店舗の一階が犯行現場となったことから、証拠隠滅の可能性を恐れた地元警察が、第一発見者でもある明夫を限りなく被疑者に近い重要参考人として引っ張ったのだそうだ。

 父は絶対にやっていない。亜衣には100%の確信があった。それは家族としてのただの願望などではない。滝本が犯行時刻―――つまり被害者の女性の死亡推定時刻だと告げた二日前の夜十時ごろ、亜衣は確かに明夫とテレビ通話をしていたのだ。ダイニングに腰かけた明夫の背景に、実家の昭和じみたキッチンも映っていた。明夫の様子だって、いつもどおりだった。昔から愛用しているグレーの襟つきパジャマを着て、氷入りのグラスに注いだサイダー片手に、『亜衣ちゃん東京は楽しいかい? パパもそっちに住もうかなぁ』なんて、その気もないのに冗談を言う。それで亜衣が『またそんなこと言って。常連さんが泣くよ』と言うと『みんなで引っ越したらどうかなぁ?』と笑う。実家を出て以来、何度もしたやり取り。

「パパじゃない。絶対パパじゃない」

 自分自身に言い聞かせるように呟き、こめかみから頬へと伝い落ちてきた汗を手の甲で拭う。その手の甲を今度はTシャツの脇腹で拭って、ついでにリュックの肩ベルトの位置を直す。その時だった。

「横峯先輩! 横峯先輩っすよね?」

 背後から聞き覚えのある声がして振り向くと、今ちょうど正面からすれ違った軽自動車がハザードランプを焚きながら路肩に停まっていて、後部座席の窓からひょろ長い男子が身を乗り出していた。

「リョウちゃん?」

「やっぱり横峯先輩だ。帰省っすか? てか今、喫茶南国ヤバいっす」

 リョウちゃん―――伊藤良平は、亜衣が大学進学のために地元を出た昨年の春、亜衣と入れ替わるように喫茶南国へアルバイトとして入った高校生だ。亜衣とは三つ違いのため、中学も高校もぎりぎり被っていないのだが、彼は何故か亜衣を先輩と呼ぶ。

 ハンバーガーチェーンへ行く途中だったという良平と彼の母の車に乗せてもらえることになり、おまけにドライブスルーでてりやきバーガーセットまで買ってもらい、本日二度目のポテトを摘まみながら亜衣は三津浜商店街の入り口まで辿り着いた。商店街内は夜間以外、車両通行禁止のため、手前の住吉橋を渡ったあたりに車を停めてもらい、後部座席で良平と二人、蛇の丸吞みのようにぺろりとバーガーセットを平らげる。バックミラー越しに意味深な視線をちらちら送ってくる良平の母は、亜衣のことを犯罪者の娘と見るべきか否か考えあぐねているようだった。

 一方の良平はというと、彼は相変わらず単純明快だった。口の端にケチャップをつけたまま唾も飛ばさん勢いで、

「マスターが殺人犯なわけないっすよね! あんな超善良なマスターが殺しなんかできないっす。こないだなんか、店に飛び込んできたハチだったかアブだったか、オレが新聞紙丸めてぶっ叩こうとしたら、可哀想だからやめろって。マスターが手で線香消すみたいにして窓から逃がしたんすよ」

 なんて話すものだから、亜衣は張りつめていた緊張の糸がふっと緩んだ気がして、反動で涙ぐみそうになった。

「喫茶南国行くならオレ、ついてくっす」

 そんな亜衣の様子に気づいてかどうか、良平がそう申し出たので、亜衣はお言葉に甘えて彼に同行してもらうことにした。

 彼の母に丁寧に礼を言って車を降りると、海に近いせいか駅前以上に濃い潮の香りが鼻腔を撫でた。風もしっとりしていて肌に馴染む。

 故郷に帰ってきた。全身に受けるそんな感覚は、いつも父に商店街前で降ろしてもらうときと同じだ。

 良平にキャリーケースを引いてもらい、亜衣はその隣を歩く。商店街を行き交う人が記憶の中よりも少ないのは、この地域の過疎化のせいだけじゃない。喫茶南国で起きた事件が少なからず影響していると亜衣は思った。すれ違う人の中には見知った顔もいたが、亜衣が目を向けると、さっと顔を伏せて歩き去っていく。正月に帰省したときには『あら亜衣ちゃん、ちょっと痩せたんじゃない?』などと声をかけてきた近所のおばさんも、今日は気まずそうに会釈するだけだ。

「みんなビビりすぎだし薄情っすよね」

 前を向いたまま、やや怒りの表情で良平は言う。その怒りが亜衣のためのものだという事実が、亜衣の目頭を再び熱くさせる。

「たぶんみんなビビりだから、マスターのこと犯人かもしれないって思いながら、犯人は別にいるかもとも思ってんすよ。そんで家からは出てこないし、横峯先輩のことも遠巻きにするんす。信じる勇気が無いっつーか……大人ってみんなそうなのかなぁ」

「ね、どうだろう」

 もうじき二十歳の大人になる亜衣にもわからなかった。ただ言えるのは、大人はいつだって子どもより『賢くて慎重で正しく』ありたがっているということだ。そして子どもは大人になるために、体の中心でパッと弾ける花火のような熱を、使い果たしていくということだ。

正月のときには熱気すら感じられた商店街の賑わいが今は跡形もなく、吹き抜ける海風は夏にも関わらずひやりと冷たい。

 そんな場所で、最後の花火のひと玉を使い、私は必ずパパの無罪を証明する。

 立ち入り禁止の黄色いテープが貼られた喫茶南国兼実家の前に立ち、亜衣は固く決意した。

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