与えられた十五分間
知らない。何も、知らない。
―――本当に?
知らないってば。
―――知っているはず。忘れてしまっただけで。
長月の疲れたような目が私を捉える。正対して視線がぶつかり合っても、いつもどこか虚ろに見える彼の目は、きっと私を透かして何か別のものを見ているのだろう。それは別の人というよりか、弥生が口にした贖罪という概念なのかもしれない。
それくらいの方が居心地がいい。真っ直ぐに私自身を見つめてくるような相手といたら、私はまるで裸にされたような気持ちになりそうだ。なる、と断言できないのは、そういった相手と向き合ったときの感覚を覚えていないからだ。
「言わないで。まだ聞きたくない」
私の帰る場所と、本当の名前。それを知っていると言われて、咄嗟に出た言葉は拒否だった。長月の唇が困惑で緩く開閉してやっと言葉を紡ぐ。
「どうしてですか。知りたがっていると思ったのですが」
「うん、そうなんだけど、なんというか……」
「伝えられるのは今しかありません。弥生が帰り際に言い残していきました。『オレが出てからきっちり十五分間、監視カメラの録音機能をオフにする』と。つまり今なら俺は、ルールを逸脱できる。本来あなたに伝えてはいけない情報まで伝えることができます」
「でも……」
あなたはどこの誰です、と言われてしまったら、まったく覚えの無いまま私はその人物になってしまうような気がする。それが本当の私であろうと、誰かに作られた偽りの私であろうと。
「聞いてしまったら、その人物以外になれないような気がする」
「どういう意味です?」
「だって長月たぶん、本当の私とは会ったことが無いでしょう? 私のこと、いつから知ってるか聞いたとき、『そう昔ではない』って言ってたから」
「ええ、そうです」
「だとすると、長月が知っている”本当の私”って、長月が誰かから与えられた”情報上の私”でしょう。その情報は嘘かもしれない」
「なるほど……否定はできません」
「今長月に、例えば『あなたは鈴木花子です、年齢はいくつで住所はどこそこで、職業は保育士です』とか言われたら、私は身に覚えが一切無いけど鈴木花子にならないといけないような気がしてしまう。私の体の中の記憶が鈴木花子じゃなくて佐藤愛だったとしても、その記憶を掘り起こすのを諦めてしまう気がする」
「つまり、俺が与える情報があなたを本来のあなたとはまったくの別人に仕立て上げてしまう危険がある、と」
私は頷く。
「わかりました。俺は、あなたという人を定義づけるような情報を発するべきではないということですね」
長月は腑に落ちたようだった。「では、他の情報ならどうでしょう」
「例えば?」
「ここがどこなのか、俺と弥生は何者か、俺たちに課せられたルールとプログラムについて」
「知りたい。全部教えて」
「わかりました。まずこの場所ですが、普通のマンションの一室ではありません。ここは、特定公益活動法人 UnKnown、通称UKのリハビリルーム7です」
「リハビリ? 病院ってこと?」
「少し違います。リハビリテーションには、病気などからの回復訓練という意味もありますが、更生や社会復帰という意味もあり、UKでは後者の意味で用いられています」
「更生と社会復帰……なんだか犯罪者みたい」
長月が沈黙した。無言は肯定とよく言う。ぞわぞわと、背骨の中心あたりから焦りが湧き上がってくる。
「待って待って、黙らないでよ」
「……はっきり言います。俺と弥生は囚人です」
「うそぉ!」
「本当です。ちなみにあなたは違いますので安心してください」
安心できないよ、と出かかった言葉をすんでのところで飲み下す。
「じゃあここは、囚人の更生施設ってこと?」
「正確には、まだ認可されていない更生プログラムを実験する場所です。ここには先生―――というのは刑務官兼研究員のことですが――先生方がいて、それぞれのリハビリルームのプログラムが適正に進捗しているか、監視カメラ越しに監視・観察しています。弥生は俺とは別の更生プログラム中で、観察官として各リハビリルームを回るのが彼の仕事なんです」
「長月の更生プログラムは?」
「俺のは……」
と、彼は言いよどんだ。「正確に言ってしまうと、あなたが知りたくないと言った本当のあなたについての情報に触れてしまいますのでぼかしますが……要はあなたに記憶を取り戻させることですね」
予想していた答えが返ってくる。
「じゃあ、長月としては本当は、私にすべてを話したい?」
「いいえ」
間髪入れずに否定されて、私は少し意外に思う。長月は続ける。
「あなたの言うとおり、俺の持っているあなたについての情報が真実かどうかはわかりませんので。嘘の情報を伝えて、あなたがそれを信じて嘘の記憶を無意識に作り出してしまったとしたら、それはあなたに記憶を取り戻させたことにはなりません」
「……優しいね」
そう思ったから口にしただけだ。けれど長月はやはり、『ありがとう』と伝えた時と同じく困ったような微妙な顔をする。
返事に窮する彼を救う意図ではないが、ふと、もう一人の男のことを思い出して話題に上げた。
「そういえば弥生は大丈夫かな。録音を止めるなんてルール違反なんじゃない?」
「まあ、心配はいらないでしょう。録音データが無いことはいずれバレるでしょうが、彼なら上手くやるはずです」
「信頼してるんだね。好きじゃないって言っていたのに」
からかうつもりではなかったものの、長月が恥じるような表情を見せたので、私は慌ててつけ加える。
「ごめん。単にいいなって思っただけ」
二人の関係性が。
「いえ、謝らないでください。あの男を好きになれないのも、一方で、信頼に足る男だと思っていることも事実です。”外”で普通に出会っていたら、もっとシンプルだったのかもしれません。友人だの親友だの、囚人同士で笑えます」
「私は笑わないよ」
「……もうじき十五分経ちます」
これで終わり、とでもいうように長月は席を立ち、ダイニングテーブルの上に残った食後の皿を運びだした。私も長月に倣い、自分の食器をシンクへと持っていく。
「時計が無いのに、どうやって時間がわかるの?」
「感覚です。刑務所にも時計はありませんので」
「ふーん、体内時計ってことか。洗い物は私がやるよ」
振り向いた長月は微妙な顔をする。逡巡しているのだなと思ったので黙って待っていると、やがて答えが返ってきた。
「手が荒れるので駄目です」
残念。