見知らぬ部屋と見知らぬ男
知らない。何も、知らない。
目を開けて最初に見えたのは、白い天井とシーリングライトだった。耳には食器を洗う音が聞こえている。ベッドの上で体を起こすと、リビングダイニングキッチン(LDK)が目に入った。私が今いる洋室はLDKに隣接していて、仕切り戸で分けられるようになっているらしい。今は、戸は開いたままだ。
対面式キッチンでカチャカチャと音を立てていた男が、水を止めて顔を上げた。年齢は三十台前半だろうか。坊主頭でがっしりとした体形をしており、着ているTシャツ越しにも胸や腕の筋肉の隆起具合が伺える。さながら自衛隊員のような風貌。ただ、たくましい肉体に反して表情はどこか虚ろで、起き上がった私を見つめる目の下には青黒いクマがあった。
「起きたんですか。おはようございます」
男は疲れたような顔で少しだけ微笑んだ。その様子があまりに不気味で、私は返事ができなかった。
「お腹は空きませんか」
濡れた手をタオルで拭き、男は冷蔵庫を開けた。「そうですね。チャーハンかオムライスなら作れます」
そんなものいらない。
「誰、ですか」
私は勇気を振り絞って一声を発した。男が冷蔵庫の戸を持ったまま私を見る。
「俺が誰か、ということなら、あなたは知る必要無いですよ」
「はい?」
「俺はあなたに覚えていただくような価値のある人間じゃない」
「価値……?」
なんなんだこの男は、と思った。価値がどうこうなんて話はどうでもいい。どこだか知らない部屋で、見知らぬ男と二人きり。その相手の素性も知らずに安心できる人間がいるだろうか。
この男は普通じゃない。
瞬時にそんな気がして、私はいつでも逃げられる体制を整えるべく、ベッドの中で足を動かした。
チャリリ。
なんだ。なんの音だ。
音の発生源は、私の足元だった。恐る恐る掛け布団を捲る。
「っ……」
言葉にならなかった。左足首に、金属の足枷がついている。その足枷には鎖が繋がっており、鎖の先はLDKの床に空いたピンポン玉サイズの穴の中へ入っている。
その穴をちょうど跨ぐように男がいつの間にか立っていた。ズボンの裾から覗く、骨ばった裸足の足。
男はしゃがみ込み、鎖に触れた。
「これをつけるのは、あなたを守るためです」
「あなたが……やったんですか」
男が相変わらず虚ろな目で私を見る。質問には答えてくれない。
「ねえ! 聞いてるの?」
私が苛立って声を荒げると、男は何故か多少満足げな顔をした。
「ああやっぱり、そっちの方がいいです。俺に敬語は使わないでください」
「……なんなんですか、あなた」
「俺は、そうですね……何でもいいですが、それだとあなたが困るんでしたら、今は九月ですので長月とでも呼んでください」
「ナガツキ?」
長月は、旧暦で九月を指す名だ。つまり、男の本名ではないということ。
「ふざけないで。私、帰りますから……!」
ベッドを下りると足元でジャラジャラ鎖が鳴る。しゃがんでいた男が立ち上がった。
「何? 来ないで!」
「何もしませんよ。ただ、俺がここに立っていると、あなたの鎖が俺の足に引っかかるので」
男は鎖の出ている床の穴から数歩下がった。
そうだ。帰るといっても、足枷を外さないことにはどうにもならない。
「これ、外してよ」
「それはできません」
「どうして!」
「言ったじゃないですか、あなたを守るためです」
「なにそれ。私をどうするの? 監禁して、いつか……こ、殺すの?」
声が震えた。殺すなんて言葉、こんな真実味を帯びて口にすることなんて無い。
男は無表情なまま首を横に振った。
「いいえ殺しません。あなたに危害は加えません」
ハッ、と乾いた笑いがこぼれる。
「こんな足枷つけといて、危害は加えないって?」
「必要以上には加えない、と訂正します」
「必要って何?」
それは必要があれば殴りもするということだろうか。私は胸の奥で心臓がきゅっと縮まるような感覚を覚えた。
「あなたを守るために必要、という意味ですよ」
男は言うと、踵を返して対面式キッチンへ戻る。「オムライスにしましょうか」
エプロンをかけて、紐を後ろできゅっと縛る。その腕の筋肉を見ながら私は、戦っても絶対に勝てないなと思ってしまう。
「三十分ほどかかりますので、その間、自由にしていてください」
足枷つけといて自由も何もないだろ!
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、私は男を睨みつけた。男がそれに気づいて疲れた笑みを浮かべる。どこか慈愛のようなものを感じるのは何故だろう。
「そんなに怒らないでください、葉月さん」
呼ばれたその名にはまったく覚えが無い。
「葉月……?」
「俺が今つけました。九月のひとつ前、八月の旧名です」
なんだそれ。
「綺麗な名前でしょう」
私は葉月なんて名じゃない。
「気に入っていただけるといいんですが」
いや―――
私は、誰だ……?
全身がさあっと冷たくなった。初めて知る、血の気が引くという感覚。次に、湧き上がってくる衝動。じっとしていられない焦り。
ここを出なきゃ。
私は男のいる対面式キッチンの脇を走り抜け、LDKから廊下へ続くと見えるドアに飛びついた。鍵は掛かっていない。内開きのドアを開けて、暗い廊下へ出る。
数メートル先に玄関ドアが見えた。鉄格子も何も無い。出られる。
ガシャン!
左足のあたりで鋭い金属音がして、つんのめった私はフローリングの廊下へ勢いよく倒れこんだ。膝と、とっさに前に出した両腕が鈍い音を立てて痛む。そして気づく。
鎖の長さが足りない。玄関まで届かないようになっている。
「ああ、可哀想に」
ひた、ひた、という裸足の足音がして、LDKから廊下へ漏れ出る光に人影が差した。
「痛かったでしょう」
足音が、廊下に伏せた私の頭の方へ近づいてくる。私は起き上がれずにいた。心臓が激しく脈打つ音が体の中で聞こえていた。
男は私の頭のそばへ跪いた。私は恐る恐る顔を上げて男を見る。男は冷淡にも見える笑みを口元に浮かべて言った。
「少し自由にさせすぎたようです」
男が手を伸ばしてきて、私はとっさに飛び起きた。しかし上手く立ち上がれず、フローリングに尻もちをつき、後頭部をしたたか壁に打ちつけた。
「暴れないで。危ないですから」
男の声は淡々としている。それが余計に私を焦らせる。
「来ないで! 来るな!」
「静かに。しーっ」
男の大きな手のひらが私の鼻と口をいっぺんにふさいだ。私はそれをどけようと、男の手首を掴む。だが、びくともしない。
空気がほとんど入ってこない。まずい。息ができない。このままだと殺される。死ぬ。死んでしまう。
必死になって男の手首に爪を立てる。そこでようやく、自分の爪が極限まで短く切り揃えられていることに気づく。他人を傷つけることなど不可能なほど。ゆえに爪を立てるというよりは、ほとんど指を立てているようなものだった。その力も次第に薄れていく。頭がぼうっとする。
男の手首をつかんでいた手が、限界を迎えてぱたりと床に落ちた。男の手のひらが私の鼻と口から離れていく。
私は激しく咳き込みながら息を吸った。頭と体に力が入らない。
「すみません、葉月さん」
男の声が聞こえた直後、ぐわんと体が強い力で浮き上がった。背中と膝裏に男の腕の感触がして、抱き上げられているのだとわかる。そのまま、もといたベッドに寝かされて、布団をかけられた。
「オムライスができるまで待っててくださいね」
男の武骨な指が私の目尻に触れて、息苦しさで生理的に流れた涙を拭い取っていく。
「絶対っ……」
私はまだ軽くむせながら声を絞り出した。恐怖より何より、言わずにはいられなかった。「許さない、こんなことっ……」
ここを出たら絶対に訴えてやる。顔は覚えた。声も、体格も。監禁と殺人未遂で警察に突き出して、ブタ箱行きにしてやる!
「ええ。そうしてください」
男はどこか嬉しそうに答えた。