五十八、書架の隙間から
ヒカリさんの詩集が売れはじめた。
「これ、いいよ! おすすめ!」
インフルエンサーの『四畳半襖の下っ端リーダ』がSNSで宣伝したのだ、エロい感じで。
もちろん依頼したのは諏訪だった。リーダに金を払って宣伝してもらったのだ。いくら渡したのかは知らない。
やはり売れるために物をいうのはカネだ。そしてプロモーションだ。
そして人脈を利用するコミュ力だ。私が新人賞を獲れなかったのはまさにそのコミュ力のなさゆえだった。
もしもあの後、禿田高丸と中島筋肉男にさらに挨拶と賄賂を重ねていれば……しかし私にそんな気の利いた社会常識の持ち合わせはなかった。
私は純文学とは何かを追い求め、純文学の道を志す者だ。
そういう人間はふつう、社会不適合者だ。小説を書いて食っていこうなんて考えるようなやつがまともな社会人であるわけがない。
しかし禿田も中島も、私にコミュ力を求めた。私とトーコにもっとちゃんとした社会常識があれば、私たちが新人賞を獲得していたのだろう。
しかし前述した通り、純文学作家を志すような人間は、社会不適合者だ。社会不適合者にそんなコミュ力を求めるほうが間違っているのだ。
私は諦めた。文壇デビューすることをだ。
しかし執筆意欲は燃え上がっていた。
あの、入院中に見せつけられた江戸さんの立派な芸術。あれを超えるような感動のある芸術を産みたいと考えていた。肉体的に勝てないのなら精神の内から産み出すしかない。
私は小説投稿サイト『小説家になりお』に純文学を書き始めた。
これこそが純というものだ。カネともコミュ力とも関係なく、ただ純粋に、我が心の内より溢れ出すものをそこに書きつけた。
読者数は知れている。それでもよかった。
私は洛美原先輩との思い出や筒竹さんへの失恋、トーコとたくさんした純文学行為で得たものなど、私が体験したものを赤裸々に、広く知って欲しくて、純粋な心のままに作品を書き、投稿した。ほぼ読まれなかった。
そうしながら、他のユーザーの投稿作品も、純文学を中心に読んでいた。
うまくはないのかもしれない。しかし、あの入院生活中に感じたような、心が落ち着く感覚を私は覚えた。
誰もが受けることや売れることなど考えてすらいないように思える。そこには純粋な『書きたい』だけがあるように見えた。
人気ジャンルではないので、ほぼどの作品も読まれていない。総合ランキングに純文学は一作品もなかった。それでも私の目には、人気ジャンルよりもそこに並べられた純文学作品は、作者の真実に満ちていて、興味を引かれた。
そんなある日、いつものように純文学ジャンルを漁っていて、その作品に出会ったのだ。
サブタイトル『書架の隙間から』は菱屋千里さまhttps://mypage.syosetu.com/2561613/の作品です。https://ncode.syosetu.com/n4568ji/
作者の菱屋千里さまからは許可をいただいております。