ブンガクおじさん(四)
「そもそも面白さなんて一種類だけじゃない」
おじさんは言った。
「ピクニック、キャンプ、冬山登山──それぞれの『面白さ』が違うように、エンタメの『面白い』と純文学の『面白い』は異質なものだ。危険のない公園でピクニックを楽しむお嬢さんに、危険な冬山登山に挑む山男の気持ちはわからんさ」
私はおじさんに質問してみた。
「そもそもエンタメと純文学の違いって何なんですか?」
「いわゆる『あるある』や『テンプレ』でみんなの面白いと思うものを共有しあい、社会の結びつきを強めるのがエンタメだ」
おじさんは答えた。
「純文学はむしろ社会に反抗する。『あるある』や『テンプレ』の反対側にあるものだ。それは個人と自然を結びつけるものだともいえる。常識だと思われている人間的なものを自然に帰すテロリズムなわけだから、それは社内的な結びつきに心の平穏を見出そうとするような人々には嫌われて当然なわけさ」
「エンタメは社会的、純文学は個人的、ということ?」
「そうとも限りはしないが──まぁ、キャンプにたとえれば、みんなで賑やかな音楽をかけてワイワイ騒ぐのがエンタメ、星を見るためのソロキャンプが純文学って感じかな」
「女の子と二人きりのキャンプは?」
「ふふふ。三角形の下で二人きり? それも純文学だねぇ」
「しかし──それを漫画ではなく、文章で書くことの意義は……」
それを問おうとして、ハッと思い出したものがあった。
諏訪がバックアップしている、ヒカリさんの詩だ。
意味はさっぱりわからなかったけど、文章を紙の上に散りばめられたものを眺めているだけで楽しかった。あれを漫画で描くことはできない。文章ならではの表現だった。
文章でしかできないことは、ある。
だが、あれを誰もが面白いと思うかというと──