二十九、ころころ
帰り道、私は心を洗われた気分だった。
失恋の傷が癒えていた。筒竹さんにフラレて、どんな純文学よりもこの失恋は真実だと思えていた。しかしヒカリさんの詩は、そんな私の想いなど大宇宙の前ではあまりにちっぽけなものだと知らしめてくれ、吹っ飛ばしてくれた。
やはり純文学は偉大なものだと思った。
現代詩もまた、純文学の一ジャンルなのだと勉強することにもなった。
ころころころ……
道を歩く私の前に、ビーチボールが転がってきた。
拾い上げ、キョロキョロしていると、千円札紙幣で見慣れている感じの顔の男性が、下駄を鳴らして駆けてきた。
「先生!」
私はそのひとの名を知らない。
だが、なんとなく、口はそのひとを「先生」と呼んでいた。
先生を追いかけて、先生の奥さんも駆けてきた。奥さんのことは美しいと思った。ただ、それは、取り立てて描写する必要もなく、ただ『美しい』と書けば済む程度に、私には特にそのひとについて詳しい興味をもたなかったというだけのことである。
続いて小さな男の子が駆けてきた。小学生の男の子と、その妹らしき後頭部を刈り上げにした女の子も駆けてきた。白い猫も駆けてきた。なんだかサザエさんみたいだなと思ったらサザエさんも駆けてきた。
この時、私は気づいたのである。
私は独りではなかったのだと。
この世にはさまざまなひとが生き、それぞれにこころを持って生きている。
知に働けば角が立ち、情に棹させば流される世知辛い世間ではあるが、人間は繋がり合ってしか、生きてはいけないのだ、と。
「人類……みな……兄弟」
そう呟いた私の手からビーチボールを受け取ると、先生はぺこりと丁寧にお辞儀をし、サザエさん一家とともにむこうへ走り去っていった。もう二度と会うことはないのだろう。