十八、ゲロの女
トーコが勧めてくれたその漫画を読み、私は雷に撃たれたような衝撃を味わった。
「面白い!」
その漫画は、借金を抱える冴えない主人公の少年が、かわいい子犬みたいな悪魔と仲良くテビルハンターをやっていたところ、殺されてしまい、しかし子犬みたいな悪魔が自分の心臓となってくれたことで『チェーンソーマン』として蘇るという、ダークで、かわいくて、ダサくてコミカルな、とても複雑な物語であった。
その漫画には、どう見ても真実が練り込まれていた。
特に私が感動したのは次のような場面だった。
主人公が所属させられたデビルハンターの集団で飲み会が行われ、片目に眼帯をした先輩の女性から、主人公はご褒美のキスをしてもらう。
主人公は目を瞑り、人生初めてのキスを味わう。
あたたかいものが口の中に入ってきた。舌が入ってきたものだと思い、味わっていた主人公が、なんかこれ違うと気づく。
その通り、入ってきたものは、酒に酔って先輩が吐いたゲロだったというものであった。
「凄い!」
私は思わず声をあげていた。
「なんだかわからないけど、凄い! 大衆が期待する通りならばロマンチックであるべきのファーストキスが、ゲロの味とは!」
そして主人公に深く共感した。
「飾らない、スケベ丸出しの、このかっこ悪い主人公は、しかし真実の若者の姿として描かれている! まるで自分の姿を見ているかのようだ!」
「ふふ……。気に入った? わたし、この漫画とても好きなの」
そう言うと、トーコも夢中になって別の巻を読みはじめた。
外から虫の声の聞こえてくる静かな旅館の和室で、私たちは、中学時代に米軍基地の中のプレハブハウスで拾ってきたエロ本を無言で読んでいたあの時に還ったように、ファンタスティックな時間を過ごした。
しかし──と、私は漫画を読みながら、考えた。
純文学に対して必死になったことはあれど、こんなに夢中になったことがあったであろうか、と。
また、この漫画はヒットした作品だと聞いた。こんな面白い作品を面白いと思える大衆が、果たして本当にバカなのであろうか? と。
知識階級も労働者階級も混然となった現代において、果たしてインテリと大衆に分けることなど出来るのであろうか? と。
この温泉旅館に宿泊してもう10日目になるが、果たして逃げることは可能なのであろうか? とも。