八、優雅で感傷的な日本純文学
「『純文学』ということばは日本だけのものなんですよ」
私が『自分が大衆でないなら何なのか』と自問しながら歩いていると、いつの間にか竹林の中に入り込んでおり、そこに小さな茶室があり、そこに敷かれた渋い臙脂色の座布団に座って緑茶飲料をふるまわれていた。
私の目の前にいつの間にか現れていたその人物は、銀縁の眼鏡をかけた、50歳前後くらいの腰のあたりをずっとソワソワさせている細身の男性であった。
「ここは……どこです? 私はいつの間に……? そしてあなたは?」
私の問いに、彼は腰のあたりをソワソワさせながら、にっこりと笑って答えた。
「あなたは『己とは何か』を自問してらっしゃった。ゆえに、ここへ辿り着いたのです」
「はぁ……」
「その答えを私が教えて差し上げましょう」
「あなたが……?」
初対面のくせに? と思ったが、黙っておいた。
「あなたは……」
男性は優しく笑い、腰のあたりをソワソワさせて、言った。
「日本人です」
「そりゃそうだ!」
私は帰ろうとした。
「待ってください。日本人は西洋人と違い、古来より個人主義ではありません。みんなで力を合わせ、みんなが同じ考え方をして、個人よりも『和』を大切にするのです。そんな日本人でありながら、西洋哲学にかぶれてしまったあなたはおかしいんだ。そうでしょう?」
「確かに!」
私は座り直した。
「まぁ、私の淹れた緑茶飲料でもお飲みなさい」
男性はペットボトルを勧め、腰をソワソワさせた。
「日本人なら風流を楽しみ、自然の中に人生を見つけるのです。ほら、春はあけぼの、夏は夜がいいでしょう? いとをかし」
「うーん……?」
「そして毒々しい真実などではなく、あなたのことを書くのが純文学です。畳に正座した目線から、優雅で感傷的な日本人であるあなたを、一人称『私』で書くのです」
なんか古臭い気がした。
それって現代じゃなくて近代じゃね? 明治時代じゃね? という気がした。ついでに枕草子は平安時代じゃね? と。
自分は国際的な現代に生き、西洋哲学も無意識的に糧として育った、現代人なのだと思い、やっぱりこの場を立ち去ることにした。
「すみません。やっぱり僕、帰ります」
すると男性は敵を見る顔になり、日本刀を振り上げ、襲いかかってきた。