9 メルローズの本心
「ノワール!」
「ガウ!!」
猟師小屋の前でうずくまっていた熊を呼ぶと、彼は嬉しそうに吠える。メルローズはノワールに抱き着いた。
「ノワール……また会えて嬉しい……」
「ぐぅ?」
彼女は顔をモフモフの黒い毛皮に埋めた。こうすればとめどなく流れる涙を侍女や庭師には見られないだろうから。ノワールには気づかれてしまうだろうけれど、彼はじっと動かず、メルローズの気持ちを受け入れてくれているようだった。
お日様の匂いをぐっと吸い込み、気持ちと涙が落ち着いてから顔を離すと、彼女はノワールの背中や頭を撫でる。
「ありがとうノワール。ねえ、秘密の話をしてもいい? 誰かに話したかったけれど、家族や屋敷の使用人には言えないことなの」
「ガウ!」
秘密の話と前置きしたことで、庭師と侍女は気を利かせてくれた。少し距離を取り、小さな話し声なら聞こえない場所で一人と一匹を見守ってくれている。
「あのね、昨日凄く良いことがあったのよ」
メルローズはパーティーの思い出を語る。肩の傷を友人との絆であると色々な人に自慢したこと。それが好意的に受け止められ、自分を『傷物令嬢』と蔑んだりからかったりする人がいなかったこと。
「そしてね、とっても素敵な人もいたの……」
皇太子殿下にダンスを申し込まれたこと。彼はとてもリードが上手で、メルローズまでダンスが上手くなったかのように息がぴったりと合っていたこと。
そして彼とバルコニーで会話したこと。皇太子という身分がとても上の人なのに、気さくに「ノアと呼んでくれ」と言ってくれたこと。
「ノア様ってなんだかノワールみたいだったのよ。ぱっと見は大きくて怖そうなんだけどね、目が優しくて、一緒にいるとなんだかほっとして……」
言いながらノワールの顔を撫でていたメルローズの手がふっと止まる。
「ぐ?」
ノワールの大きな漆黒の目がメルローズを見つめた。彼女は涙をこらえ、震えている。
「とっても……とっても、す、素敵な人だったの……初めて会ったとは思えなくて……わ、私、結婚を申し込まれ、て……嬉しかったのぉぉ」
言葉尻が揺れ、こらえていた涙もあふれ出す。メルローズは再びノワールに抱き着き、泣き続けた。
「すっ、すごく、嬉しかったのにっ、私っ……断ってしまって……だって、だってジェイムズが……ジェイムズに何かあったら……」
メルローズが求婚を退けた理由。そして、家族に言えなかった理由。
すべては、病弱な弟のことを考えていたからだった。
もしもたったひとりの、大事な大好きな弟が死んでしまったら――――そんな事は考えたくないけれど――――
考えたくないけれど……そしてそれを口にしたら現実になりそうな怖さがあって、今まで誰にも話していなかったのだけれど。
メルローズは以前からその事をずっと考え続けていたのだ。
「弟は身体が弱いから……私っ、私はっ……この国に残らなきゃ、いけないの……」
ドレンテ伯爵家の子供はメルローズとジェイムズの二人だけだ。もし弟がこの世を去るようなことがあれば、彼女が女伯爵になって家を継ぐしかない。
あの、頑固で少しおこりんぼうだけれと、生真面目で誠実な父も。
おっとりしていて優しいけれど、ちょっと抜けたところがある母も。
そんな両親が誇りにしているこの屋敷と領地も。
メルローズが外の世界を恐れ屋敷から外に出ることができない間、根気よく励ましてくれた使用人たちも。
メルローズは全部全部愛していて大事に思っている。
それらを全て守るべき伯爵という立場を放り出し、他国に嫁ぐなど考えられない……考えてはいけないのだ。メルローズはずっと何年もその事を考え続けてきたのだから。
昨日初めて会ったばかりのノアにどれだけ惹かれようとも、家族と領地を見捨てて自分だけ幸せになどなれるわけがない。
メルローズは昨夜部屋に閉じこもってから、改めて自分の未来を考えた。やはりどこかの老人の後添えか、修道院に行く方が望ましいのではないか。ジェイムズが元気ならそのまま過ごし、もし何かあればすぐにドレンテ伯爵家に戻ってこれるから、と。
しかし頭の固い父は貴族男性と結婚し安定した生活を送ることこそが令嬢の幸せだと思い込んでいる節がある。修道院なんて断固反対するだろうし、後添えも夫が亡くなれば婚家から追い出されるリスクがあるから納得はしないだろう。
そうなると引き続き縁談を探す必要に迫られる。だが結婚相手は、安易に誰でもいいわけではないのだ。伯爵を継ぐ可能性がある彼女を利用するような人でも、逆に爵位を継ぐのを反対するような人でもいけない。
現状、父の条件を満たす筆頭があのダスティンだ。絶対に彼だけはだめだとメルローズの直感がガンガンと警鐘を鳴らしている。
なんにせよ、ノアとの結婚は無理な話なのだ。
「だけどっ……ううっ」
自分で決めたことなのに、無理な話だと改めて認識すると何故か涙がまたあふれてきた。ノワールの毛皮を涙でびしょびしょにしながらメルローズはノアを思い出す。
黒い髪も、瞳も、宝石のように綺麗だった。
整った顔立ちは一見冷たく固い表情だけれども、笑うと年相応で親近感が湧くところもあった。
ダンスを踊り、バルコニーで会話した時は夢のようなひとときだった。
よろけたところを支えてくれた腕や身体の逞しさにときめいた。
プロポーズされた時は心が身体を震わすほど嬉しかった。
素敵な時間を与えてくれた彼に感謝をしている。それらを一生の宝物として胸に秘め、これからの人生を歩もうと彼女は思っていた。それなのに。
「……なぜ……こんなに悲しくなるの……?」
昨日初めて会った人なのに、もう二度とノアに会えないのだと思うと心が引き裂かれるように悲しい。
「ガウ……」
と、ノワールがメルローズの濡れた頬に顔をこすりつけた。
「ノワール……なぐさめてくれてるの?」
「グウ!」
「ありがとう。大好きよ、ノワール」
「……がぅ」
まるで照れながら「僕も」と返事をするように鳴いたノワールの反応に、やっとメルローズが微笑んだ。
★
今まで誰にも話せなかった本心をノワールにさらけ出したメルローズは、どこかスッキリとして屋敷に戻った。ところがその日の夕方には大変なことになる。
王家の保養地から再び使者がやってきたのだ。明日の午後、皇太子殿下がお忍びでこの屋敷を訪れるという先触れだった。
「殿下より、ドレンテ伯爵家の皆様に改めての挨拶をされたい、との事です。他言無用で願います」
改めての挨拶。それが何を意味するのか。
両親はわっと期待に胸を膨らませ、メルローズは困惑と緊張と恐れと……そしてノアにまた会えるという嬉しさで心がぐちゃぐちゃになりそうだった。