8 皇太子からの求婚
ひとしきり笑いあった後。ノアが右手を首の付け根あたりに当てる。
「君の肩の傷は友人との絆であり、名誉ある負傷だそうだな。実は俺にも似たようなひどい傷がある」
「まあ」
「だから傷一つないような繊細なご婦人では、俺の傷を見た途端に卒倒するだろう。それでは俺の相手はつとまらんのだ」
皇太子とはいえ激しい戦いに身を置いた人なら、功績と引き換えに大きな傷の一つや二つあっても不思議ではない。メルローズは納得した。
「ああ、そんな理由でしたの」
「……と、いう事に表向きはしているのだが。本当は、君に傷をつけた責任を取るつもりだった」
「え?」
きょとんとしたメルローズの顔をノアが覗き込む。まるで心の内を見透かすように。
「やはり、君は父君から何も聞いていないのか。……なるほど。確かにドレンテ伯爵は信頼できる忠臣だとは伯父上から聞いていたが、いささか真面目が過ぎる人物だな」
「父が……? ノア様、父をご存じなのですか?」
「まあ知っていると言えばそうだが。会話をしたのは今日は初めてだ」
「父にお声を?」
「ああ、君とダンスを踊る許可をくれと言ったらな、腰を抜かして倒れかけていたぞ」
「!」
メルローズの頭の中にその場面が浮かぶ。確かに父ならば皇太子殿下がわざわざ断りを入れに来たら気を失うかもしれない。いや、真面目すぎるきらいがある父だからこそ、そうなったらもっと大真面目に考えてしまうだろう! もうメルローズは妃候補になったも同然だとか……。
「あれで腰が抜けるのなら、俺が君に求婚をしたらどうなるかな?」
「え!?」
いたずらっぽくノアにそう言われて、今度はメルローズが腰を抜かしそうになった。ふらりと身体の芯が抜け、よろめく。
「危ない」
逞しいノアの腕にがっしりと支えられ、抱き寄せられた。先ほどのダンスの時よりも更に密着する態勢となり、メルローズの心臓が再び激しく動悸を起こす。頬が熱い。
「大丈夫か?」
「殿下、あの……」
「ノアだ」
「ノア様、あの、もう大丈夫ですから、離してください」
「離したくない、と言ったらどうする?」
「……」
「今のは俺の嘘偽りの無い本心だ。だけど、俺の立場を利用して君に無理強いをするような真似だけは避けたいとも思っている」
ノアは彼女の身体に回していた手を緩めた。彼女が逃げられる隙を作るように。
「もし君が本当に嫌ならば、そう言ってくれてかまわない。不敬とか、父君がどう思うかなんて考えずに君の正直な気持ちを聞かせてくれ」
「ノア様……」
「君は信じられないかもしれないが、俺は……一目惚れなんだ。初めて会った時から君に惹かれていた」
「え」
「メルローズ・ドレンテ嬢、俺と結婚してほしい」
「!」
まさかの出会ったその日に求婚され、メルローズに衝撃が走る。彼女は彼を見上げた。彼の黒い瞳はやっぱり優しくて、いつまでも見ていたい気持ちになる。彼女の目にはじわりと涙が浮かんだ。
メルローズの口から、答えが絞り出される。か細い、震える声で。
「は……」
「は?」
「は、離して、くださいませ」
メルローズは彼の厚い胸にそっと両の手を当ててゆっくりと押すようにし、腕の中から逃れた。その間もずっと視線は彼の顔から離さなかった。少しでも長く彼を見て、想い出に刻み付けたかったから。
今日初めて会ったのに、まるで昔からの知り合いのように心がほっと安らぐ、それでいてドキドキさせられるひと。こんなひとにはもう二度と出会えないだろうと思いながら、彼女は正反対の内容を口にする。
「申し訳ございません……殿下のお気持ちには応えられません」
「理由を聞いても?」
彼女が無理に笑顔を作ると、小さな涙が頬の上を転がり落ちた。
「たとえ殿下に傷があったとしても、世間に『傷物』と揶揄される私ではとても殿下には釣り合いませんもの。失礼いたします」
彼女がバルコニーを去ると、死角から細身の男が現れる。失意の皇太子に気さくに声をかけた。
「あーあ、だから言ったじゃないですか。ガツガツするなって」
「……仕方ないだろう。俺の滞在期間は決まってるんだ。時間は限られてる」
「だからって会った当日にプロポーズはやり過ぎですよ。女の子はね、もっと時間をかけて口説かなきゃなりません。幾ら殿下に気があっても、アレじゃうんと首を縦に振れませんよ」
がくりと折れていたノアの首がゆっくりと上がり、男に顔を向ける。目には光が再び宿っていた。
「気が……あるのか? まだ、俺はメルを諦めなくていいのか? ガルベリオ!」
何も知らない子供に言い聞かせるように、皇太子の側近ガルベリオは優しく言った。
「きっとあると思います。けど、またガツガツ行っちゃダメですよ。……あ、そうそう」
そして彼はなんでもないことのようにサラリと付け加える。
「今日の午後、やっと連中の一人を捕まえたと報告がありましたよ。仲間の居場所や、誰が裏で糸を引いているか口を割らせます」
「……そうか。よし」
★
ドレンテ伯爵は帰りの馬車の中でそれはもうカンカンに怒っていた。先ほどまではニッコニコの満面の笑みだったのだが、メルローズがノアからの求婚を退けたと聞いて、鬼の形相になったのである。
「皇太子殿下は我らが国王陛下の甥にあたられる方だぞ! その方の妃に望まれるなど、女性としてこれ以上無い幸せではないか!! 何が不満だというのだ!?」
「……」
メルローズは貝のように押し黙っていた。父は「何が」と訊いているが、どうせ彼女が何を言っても怒って「それは間違いだ!」と言うに決まっている。それになにより、彼女は求婚を退けた理由を家族には言いたくなかった。
だがメルローズが無言だったために父親は誤解した。娘はやはり子供のようなわがままで「まだ誰とも結婚なんてしたくない」と駄々をこねているのだと思ったのだ。
「とにかく、殿下にお詫びの手紙を書け。それでなんとかなるとは思えんが、せめて誠意は見せねば」
「嫌です。書きません」
「メル!」
そんな感じの押し問答を馬車の中でも、帰宅してからも繰り返し、結局メルローズは自室に閉じこもった。また長期戦で部屋から出ないつもりでいた。
ところが翌日、昼前に侍女が慌ててやってきたのだ。
「お嬢様、庭師からの伝言です!」
伝言を聞いたメルローズは自ら扉を開け、部屋を飛び出した。そのまま屋敷の裏口から外へ出て森へ向かう。
森の入り口には庭師が待っていた。
「ねえ、本当なの!? ノワールが来ているって!」
「ええ、朝から森の方でグワグワーっとうるさい鳴き声が聞こえてましてね。それでもしかしてと思って猟師小屋まで行ってみたんです。そしたら……」
みなまで聞かず、メルローズは走り出した。
「お嬢様、危ないです! 待ってください!」
侍女や庭師の忠告も聞かず、木の根を飛び越え枯葉を踏みしめて森の中を軽やかに駆ける彼女は、まるで10歳の頃に戻ったようだった。