5 メルローズの決意
「……嫌だわ。なんてこと」
昨日までは、ノワールのモフモフの毛並みを撫でれることができれば10歳の頃の強い自分に戻れると信じていた。
それなのに今の姿はどうだ。相変わらず部屋に閉じこもり、大きなぬいぐるみを抱えて愚痴をこぼす16歳の娘が鏡の中にいる。
ノワールは身体こそ大きくなったが、六年前と変わらない、優しい目をしていたのに。
(私も、昔の私を取り戻さなきゃ)
メルローズは決意した。
★
その晩と翌朝も食事を摂らずに部屋に閉じこもったメルローズの頑なな態度に、両親は一旦は引き下がる事にしたようだ。
「メル、あなたの気持ちはよくわかったわ。でもいつかはどこかの家に嫁がなければいけないのよ~」
早めの昼食を摂りながら、同席した母親にやんわりと諭される。両親がメルローズを案じている気持ちも理解でき、彼女の心は少し痛みを覚えた。
「……ええ。でもシュールレ男爵令息とだけは結婚したくないの」
「でも……」
母は明らかにしゅんとして言う。
「……あなたには他にあまり良い縁談は来ていないのよ」
「もし本当に他にご縁がないなら、奥様を亡くしたお年寄りの後添えでも、いっそのこと修道院に行くのでも構わないわ」
「……そこまで考えるほどなの……?」
母親は絶句した。やっと娘が本気でダスティンを嫌がっているのが飲み込めたのだろう。
「ええ。でももう少し時間を貰えないかしら? 他の方とご縁が薄いのなら、その縁を捕まえてみないとわからないでしょう?」
昼食後、再びメルローズは庭師と侍女を連れて森に入った。正直な気持ちを述べると、もう一度ノワールに会えるかもしれないという淡い期待もあったがやはり彼はいなかった。
しかし本来の目的は昨日摘むことができなかった秋の実を採るためである。そちらの目的は十分に果たせた。メルローズはブドウやベリーを持ち帰り、きれいな水で丁寧に洗うとジェイムズの部屋に持っていった。
「うん、あまずっぱくて美味しい!」
「良かった。沢山あるから好きなだけ食べてね」
ブドウをちびちびと美味しそうに食べるジェイムズの傍で、メルローズは侍女に「ここはいいから」と声をかけ下がらせる。二人きりになるとジェイムズは果実をつまむ手を止め、真剣な目で姉を見た。
「姉さん、何かあったの?」
「……ジェイムズ、ごめんなさい。今後あなたに迷惑をかけるかもしれないわ」
「迷惑?」
「私、今まで肩に傷があるからあまり外に出なかったでしょう? これからはもっと積極的に外の世界と交流を持つことにしようと思って。でも多分『傷物』と揶揄される娘が堂々と表に出ていたらドレンテ伯爵家の家名を汚すことになると思うの」
「それなら僕じゃなくてお父様に断るべきじゃない?」
「お父様は心配性なのよ。私が誘拐されそうになって以来、家の外で何をしても反対するんだもの。今回も反対するに決まってるわ。それにドレンテ家を継ぐのはあなたでしょう、ジェイムズ」
「……そっか」
ジェイムズはどこか悲しそうに微笑んだ。次期当主と認められていることが嬉しい半面、ベッドからほとんど起き上がれない自分を不甲斐なく思っているのだろう。
「僕はいいと思うな。姉様はとっても美人だから、もしも傷のない姿だったら並の男じゃ釣り合わないよ。だから傷があるくらいでちょうどいいのさ」
「あら、ジェイムズったらいつの間にそんなお世辞を覚えたの?」
「へへ、僕だってもう14歳なんだからね。ちゃんと女性を褒めるくらいできるよ」
「まあ、ふふふ、頼もしいわね」
姉は得意気な弟の顔を見て、彼の成長を嬉しく思い、共に笑った。
★
まるでメルローズの作戦を知っているかのようなタイミングで。
同日、隣の領地……つまり王家の保養地となっている屋敷から使者が来て、招待状が届けられる。
この度、隣国のオソランサ帝国から皇太子殿下が来て王家の保養地に滞在する予定で、急なことだが信頼できる貴族を何人か招き小規模のパーティーを開くという内容だった。
オソランサ帝国と、メルローズの属するボーレンヌ王国とは友好国で交流が盛んだ。オソランサの皇帝が戴冠前、当時のボーレンヌの王女……現在の王妹を妃に娶ったからである。
つまり皇太子殿下はその息子で、オソランサ皇家とボーレンヌ王家の両方の血を引いている。
更には、軍事力や各兵士の能力の高さで周辺国に知られるオソランサの中でも、皇太子は抜きんでて強い武人でもある。あまりの強さに『血塗られた皇子』だと恐れている人間もいるという噂だ。
「おお、王家の血を引いておられる殿下を歓迎するパーティーだと。王家は我がドレンテ伯爵家をこの場にふさわしいと認めてくださっているのだな!」
「信頼できる貴族だけを招くと書いてありますものね。光栄だわ~」
浮かれる両親に乗じて、メルローズは新しいイヴニングドレスを急ぎで注文する。
父親が女性のドレスの流行に疎かったのと、他ならぬ王家主催のパーティーに参加するため、特に反対されることもなく無事にそれは完成し屋敷に届けられた。
しかし届いたドレスを見たドレンテ伯爵は流石に苦言を呈さずにはいられなかった。ドレスは今流行の肩が見えてしまうスタイルで、メルローズの大きな傷を一部分しか隠すことはできなかったのだ。
「メル、まさかパーティーにそのドレスを着ていく気ではあるまいな!?」
「そのまさかですが、何か不都合でも?」
「不都合に決まっている! 殿下や王族の方々の前で傷痕を見せるなど恥晒しではないか!」
父親は愛する娘が物笑いの種にならぬよう、彼なりに心配しての発言だったのだが、それにしては言葉選びと口調の激しさがまずかった。ひどい言葉をぶつけられたメルローズの中にまたカッと熱が走る。
だが彼女は前回の反省を活かし、内なる熱をグッと抑えて冷静に、そして大人の言葉遣いで反論した。
「お父様、お言葉を返すようですがこの傷は恥ではありません。名誉ある負傷なのですから」
「名誉ある負傷だと?」
「ええ、お忘れですか? これは大事な友人が私を守るために爪を振るった際、卑劣な誘拐犯が私を盾にした為にできた傷です」
「友人ってお前……それは熊じゃないか」
「その事は問題ではありません。問題にすべきは、彼が爪を振るわなかったらどうなっていたか、ということです」
「……!」
父は瞬時に理解し、顔色が変わった。だがその答えはあまりにも残酷で「どうなっていたか」は口に出せなかったのだろう。彼は無言を貫いた。だからメルローズは代わりにハッキリと口に出してやったのだ。
「10歳の私は誘拐され、幼い娘を好む変態に奴隷として売られていたかもしれません。そこまではなくても、犯人から多額の身代金を要求されたでしょうね。そして身代金が支払われても無事にこの家に帰れたという保証もありません。最悪の場合は死体で、良くても本物の『傷物』になっていたのでは?」
「! あぁ……」
話のあまりの恐ろしさに、母親である伯爵夫人は気が遠くなった。よろめいた夫人を侍女たちが慌てて長椅子に寝かせる。その騒ぎの横で父親とメルローズは無言で睨み合った。しばらく後、父は口を開く。
「……お前の好きにしろ。後悔しても知らないぞ」
ドレンテ伯爵はそう言い捨てると横になった妻に寄り添い、娘にはそれきり顔を合わせなかった。
(後悔なんてしないわ。だって今までずっと後悔してきたんだもの)
誘拐犯に狙われている事やダスティンの態度に怯え、ノワールのぬいぐるみに甘えるだけで何もせず外の世界と交流をはからなかった後ろ向きな自分を、嫌というほど後悔したのだ。
彼女は前を向いて生きることに決めた以上、そこで傷痕について誰かにからかわれても後悔などしないと自分に誓い、部屋を出た。