25 ノアの過去②
第2話のノア視点のため、流血シーンが少しあります。
しかし幸せでは腹は膨れない。
ノアはしばらく彼女にじゃれついていたが、ふと腹が減っていることに気がついた。領地を越境するほど森を駆けていたし、いつもならそこらで木の実などをつまんでいたからだ。
とりあえず空腹の足しに木に塗られた蜜を舐めようと思い木に登る。と、少女が目を輝かせて彼を褒めた。
「凄いわワンちゃん! 木登り出来るなんて器用なのね」
(!?)
ノアは(熊の姿なのもあり)表情があまり変化しなかったが、内心では酷く困惑した。まさか犬に誤認されるとは思ってもいなかったからだ。
(この子は熊を見たことがないのか……でも、もし熊だと知ったら怖がるかもしれない)
そう空気を読んだノアは、できるだけ犬っぽく鳴いてみた。
「う……うぁん!」
自分でも変な鳴き方だとは思ったが、少女は疑問に思わなかったようだ。
ノアはホッとして木に付いた蜜を舐めた。ほぼ全部を舐め取ると、周りに強く漂っていた甘い匂いも消えたのでより鼻が利くようになる。
少女から離れていても、その匂いも微かにわかるようになった。同じ甘い香りでも彼女のそれはふんわりと優しく、ノアはやはり幸せな気持ちになった。
……が、すぐに森の向こうから風に乗って別の匂いを感じとる。同時に足音と話し声も僅かに聴こえてきた。
「……お嬢ちゃん……」
「……楽な仕事だ…」
(なんか嫌な言い方の大人の男が二人だ。それにこの匂い、あの罠にたっぷり染み込んでたのと同じ!)
ノアの野生の勘が危険信号を出す。思わず木から降り、男達の方角に向けて威嚇した。
「ガルル……グアッ!」
「わっ!」
「なんだ!?」
男達の動揺と、何か話し合う言葉が風に乗って聴こえてくる。やがて二人の足音は遠ざかっていった。
☆
ノアは少女に飼われることになった。
こう言葉にするとなかなかのインパクトだし、実際ノアの正体を知る者が見たら「ルイス殿下が人に飼われるなど……」と気が遠くなりかけただろうが。
まあ、彼女はノアを大きな犬と信じて疑わなかったのだから変な話でもない。
「私はメルローズよ。あなたの名前は……そうね、ノワールにしましょう!」
「うぁん!」
ノワールと言う名は彼のセカンドネームにも似ていたし、何より大好きなメルローズに貰った名前だ。不満など有るわけがない。
(薔薇の蜜か……。なんて素敵な名前だろう! この子にぴったりだ)
彼はメルローズにベタ惚れだった。初恋だったので比較のしようもないが、こんなに人を好きになったことなど無いと言い切れるぐらいだ。彼女の髪の先からつま先まで全てが愛おしく思えたし、声を聞くだけで胸が高鳴る。笑顔が見られれば一日幸せな気持ちになれた。
(こうしてずっとメルといられたらいいのに)
だがそれは叶わぬ望みだとわかっていた。最近ではめったに発熱しなくなったし、成長痛もだいぶ和らいでいる。近いうちに自分はオソランサに帰ることになるだろう。
だからもう少し、あと数日、もう一日……と彼はメルローズと過ごす日を少しでも長く延ばそうとした。その気持ちを優先させたために、懸念をきちんと対処せず、なあなあにしたのだ。
ノアは猟師小屋を住処にし、そこで密かに飼われることになっていた。
メルローズは気づいていないが、彼女が帰った後は当然彼も保養地の屋敷に帰り、人間の姿に戻って昼夜を過ごしている。次の朝にはまた猟師小屋に戻ってメルローズを待つという二重生活をしていた。
その間、ノアは森で何度も人工の罠に出会ったのだ。ある時は自分が捕まったような網の罠、またある時は落とし穴だった。罠が仕掛けられた場所は毎回変わるが、いつも決まって猟師小屋の近くに設置されている。
ノアは毎朝そこらを散歩し、罠を見つけては解除していた。罠についた匂いは、例の嫌な喋り方をする男たちのものだ。
(もしかしてこれはメルを狙ったものじゃないか……?)
そう思うこともあったのだが、もしも本当にそうなら、彼女が自分に会いにくるのを止めさせないといけない。もう二度と会ってはいけない……と思うと彼の決心は鈍った。そして彼は自分に甘い選択を取ってしまったのだ。
(本当にそうかはまだ確信が持てないし、俺が毎日罠を解除して回っているのだからメルには危険がないはずだ。もう少し彼女と過ごしたって大丈夫!)
……と考えたのである。
後に「あの時の自分は何と愚かな選択をしたものだ」と思う。もちろんそれは結果論でしかない。常に正しい未来を選びとる事など不可能だ。
けれど、悔やんでも悔やみきれないのも事実だった。
ある日のこと。そこらを歩き回り罠がない事に安堵したノアは、猟師小屋の横でメルローズを待つため地面にうずくまった。木漏れ日が気持ちよく差し込み、彼の黒い毛皮をぬくぬくと温めてくれている。彼はうっとりと目を閉じ、意識を揺らがせた。
突如ジャリン! という音と共に、首元に冷たくごつごつした感触を覚えるまでは。
「ギャン!!」
「やった! ついに犬っころを捕まえたぞ!」
うたた寝をしていたノアは、いつの間にか首の周りに鎖を巻かれていた。何度も嗅いだ嫌な匂いがプンプンする。それはノアを捕らえた二人の男たちから発されていた。
(しまった! ……ああ、メル!)
男たちはニヤニヤしてノアを眺める。
「これでもう罠を邪魔されることもないな」
「グルルル!」
「おっとあぶねえ、お前のお陰でこっちは大変だったんだぞ!」
「大人しくしやがれッ!」
「ガァッ!」
仔熊は鎖で繋がれ、自由を奪われた。男達は彼の爪や牙が届かない距離で罠を拵え始める。ノアは鎖を引っ張り脱出しようと試みたが、鎖は頑丈でびくともしないどころか、首の周りがこすれてチリチリと痛みが起きるだけだった。
(メル! 来ちゃだめだ! こないで!!)
彼はドレンテ伯爵家の方角に向かい遠吠えをしたが、それは逆効果だったと後にわかる。
「ノワール!?」
慌てた様子でメルローズがこちらに向かって駆けてきた。まんまと男達の罠にかかり、彼女の身体が網に絡め取られ宙に浮く。
「きゃあああ!」
「グワウ!」
ノアは吠え続け、そして鎖を引っ張り続けた。男達が猟師小屋の陰から現れて罠から彼女を助け出すが、そのまま腕を掴み連れて行こうとする。
「ガウウウ!!」
「ノワール! ノワールの鎖を外してあげて!」
「あんな凶暴な獣、自由にさせるわけ無いだろうが。さ、行くぞ」
(メル!!)
ノアの頭の中が恐怖と怒りで真っ白に染まる。その白さに埋め尽くされて他に何も考えられなくなった瞬間、獣人の血が持つ真の力が解放されたのだと思う。今までにない凄まじい力が身体の奥から湧きあがった。
「グルルルァ!!」
彼は鎖を引きちぎり、そのまま男達に向かって跳びかかる。怒りに支配された彼は、鋭い爪で奴らを引き裂くことしか頭になかった。
男の一人が卑劣にもメルローズを盾にすることなど考えるはずもない。
(!)
あっと思った時には既に前肢が振り下ろされていた。メルローズの右肩と、彼女を捕まえていた男の左腕に爪が食い込み肉を切り裂く。その感触をノアは一生忘れられないだろう。
「きゃあっ!」
「ああっ!! 痛えっ、この野郎!」
赤い、赤い、深紅の薔薇よりも赤い血。それがメルローズの肩からほとばしっている。ノアは目の前の惨状を否定し泣きわめきたかった。
それなのに……口から出てくるのは獣の咆哮だけ。
「グルルルァ!!」












