24 ノアの過去①
重臣は国を転覆させようとした重罪人として処された。
また、ノアが伝説の槍を扱えるとわかった以上、その力を悪用させないためにも槍は厳重に保管され、ノア自身にも不埒な輩が簡単に近づけないよう見張りや警護も増えた。
だが彼の心は穏やかにはならなかった。重臣の企みがもし成功していたならば、国を壊す大事になっていたと知って落ち込んだから。
(僕が獣の力を持っていなければ、こんな騒ぎも起きなかったのに……)
今回の事件をきっかけに、彼は自分が持つ獣の力は良くないものだと、ますます厭うようになったのだ。
☆
「やあっ!」
木剣を振りかぶり、ノアは渾身の打ち込みをした。渾身のつもりだったが軍団長はそれをそよ風のように捌く。
「えいっ、はっ!」
続く連撃のつもりも、ひらりひらりと躱された。剣の覚えがない少年が見よう見まねでやったところで、歴戦の猛者にはわかりやすい大振りなのだろう。
「ううっ……くそう」
軍団長にせがみ剣の稽古をつけてもらったはいいが、一撃も当てられずノア少年は唇を噛む。
「いやいや、初めてでこれとはなかなかのものですよ」
「……ほんと?」
「はい。殿下は大変筋がよろしい。軍の者でよろしければ、これからもぜひお相手仕りましょう」
「じゃあ、僕帝国軍に入ろうかな! 敵をどんどんやっつけて見せるよ!」
「ははは、それは頼もしい。将来の我が軍は安泰ですな」
軍団長は笑った。皇子相手のお世辞もあったが、本心も少しは混じっていたかもしれない。
先祖返りによる獣人の血は、ノアに並外れて大きな体格と、群を抜いて高い運動能力を与えていた。
(変身しなくたって、槍がなくたって、僕は充分強いんだ!)
彼は獣の力を使わずに済むよう、剣技や武術を磨くことに夢中になった。十歳の頃には身分を隠して軍の訓練に参加したことすらあった。
まあ、今にして思うと軍の兵士や騎士たちも薄々彼が皇子だとわかっていて知らんぷりで相手をしてくれていたのだろう。いくら体格に恵まれていると言っても、彼の中身は明らかに少年らしかったのだから。
ただ、軍の訓練のお陰もあってノアの腕がめきめきとあがったことは間違いない。
それに伴って獣の力ではなく、自分の力についての自信もあがっていった。
☆
しかし彼の歳が十一を数える頃。
突如彼の全身は、自らを攻撃するかのように筋肉や骨の痛みと高熱が繰り返されるようになった。
それだけではない。自分の意思に反して勝手に仔熊の姿に変身するようにまでなってしまったのだ。最悪なことに変身しても症状は大して落ち着かず、痛みや熱に浮かされて冷静な判断もできない。野生の本能のままに身体が動かされる時さえあった。
「恐らくこれは成長期によるものではないでしょうか。痛みは成長痛の可能性があります。ですが熱の原因は不明です……なにぶん、獣人の成長期についての過去の文献が残っていないので……」
当時の医師はそう言っていた。つまり、どうにもできないと匙を投げられたのだ。
ノアは変身した姿を見せまいと部屋に閉じ籠りがちになる。大好きな剣の訓練も、皇子としての勉学に励むこともできなくなった。
更には、その密室の中でも野生の血に抗えず仔熊の姿で暴れることもあった。変身が解けた後、荒れ果てた部屋の惨状にノアは声を出さずただ肩を震わす。その様子を見た侍従や侍女、側近のガルベリオも心を痛めていた。
中でも最も心を痛めていたのは、ノアの実母である皇妃陛下だったろう。
「ルイス。私の生まれた国で暫く静養をしてみてはいかがでしょう? お兄様がね、貴方が自由に過ごせる場所を貸してくださるそうなの」
「自由に……ほんとう?」
隣国のボーレンヌの王は、皇妃の実兄であり、そして唯一国外でノアの秘密を知っている人間だ。彼は太っ腹なことに王家の保養地の屋敷を「めったに使わないから好きにしていい」と、いつでも滞在できる権利を与えた。
また、直轄領の担当者には予め「ルイス・ノア皇子は熊を飼っている。帝国では熊は神聖な存在だ。人を襲わないように躾けられているから熊に出会っても自由にさせておくように」と通達もしてくれていた。
信頼できる配下のみを引き連れ、ノアは密かにボーレンヌ王国へ身を移す。
王家直轄地と言っても領地は狭く、本当に保養地やもしもの際の避難先としての機能しかないようだ。故に周りは深い森に囲まれ、訪ねて来る者もいない。
熊の姿で屋敷や森をうろついても心配のない生活を送るうちに、彼の心は少しずつ解放され変身することに抵抗がなくなっていった。
一度変身への嫌悪感が薄れると、それは自分の心を閉じ込めていた檻だったようにさえ思えてくる。彼は毎日、思うまま野生の本能の赴くまま、森を駆け地面に寝ころび木の実を食み、自由を満喫した。すると不思議なことに、あれだけ彼を悩ませていた原因不明の熱は徐々に収まるようになってきた。
自由な心と自由な体を手にした喜びは、更にノアの肢を遠くへ運ぶ。彼は森じゅうを熊の姿で探索した。
そんなある日のこと。
森の中を走っていた彼の鼻が、ふと甘い蜜の匂いを捉えた。すっかり野生に染まった彼は本能に従い、蜜の匂いに惹かれて更に走る。周りの景色が飛ぶように後ろに流れる中、視界の端に人工的な小屋を認めた。
(!)
その瞬間、地面に隠されていた網が飛び出し空中に吊り上げられた。
「ギャンッ!!」
野生に占められていた彼の心が、人間としての理性を取り戻す。
(しまった……! 森の中に小屋があるとは聞いていない。多分他の領地に越境してしまったのだな……)
ジタバタしてみたが、完全に網に捕らわれ宙づりにされていて逃げ出せない。改めて網の隙間から罠の仕掛けを確認する。木の高いところに縄を通し、片方に重しになる石を結んである。もう片方には地面に隠した網に繋げてあり、網に乗ると押さえていた杭が抜けて滑車の原理で持ち上げられる仕掛けのようだ。おまけに、罠を仕掛けた木には、ノアが引き寄せられた蜜がたっぷりと塗ってあった。
ノアは一瞬、敵の手に落ちたのかと考えたが、すぐに自分で否定する。
(……いや、この罠は俺を狙ったものではない)
ノアが成長するにつれて、城内では家臣たちの静かな牽制が水面下で行われている。次の帝位を継ぐのが彼か叔父である皇弟かで家臣たちも二手に分かれ、争っているのだ。だがノアの身は過去の事件により城内では守られていて直接手を出すのは難しい。
だからといって王家直轄地ではなく別の領地にまで罠を仕掛けるのは効率が悪すぎる。ほとんど当たらない博打と同じだ。それにボーレンヌにノアが滞在しているのは極秘事項のはずだし、その情報が洩れているのなら、とっくに他の方法で攻撃されているだろう……と彼は冷静に考える。
(しかし……どうしよう。ここで変身を解く……か?)
これもノアはすぐに思い直した。人間の五本の指があったところで罠の解除もできそうにないし、それになにより……仔熊の彼は裸である。人間の姿に戻るのは悪手と考えた。
「グゥ……きゅうん……」
結局、彼は熊のフリを続け、情けない声を上げて助けを呼ぶことにした。
自由に独りで動きすぎたせいで王家の警護兵がここまで来てくれる可能性は低いが、自分が狙われた可能性が低いなら罠を仕掛けた当人に下ろして貰えるかもしれない。
暫く鳴いていると、枯葉をカサカサと踏みしめる小さな足音がする。蜜を塗られた木の幹の陰から、ノアとそう歳の変わらない、一人の少女がひょっこりと現れた。
「……!」
ノアにとってそれは運命の出会いだったと言えよう。
彼は一目で恋に落ちたのだから。
ライトブラウンのさらさらの髪に、榛色の瞳をもつ彼女は天使のように美しかった。
「……きゅううん!」
「まあ可哀想に。今助けてあげるわね」
彼女は石に結わえられた縄を見つけ、それをほどいてノアを下ろしてくれた。ノアは少女に飛びついて顔をぺろぺろと舐める。
それが野生の本能からか、それとも人間としての恋愛の情からによる行動だったかはよくわからなかった。が、彼女に顔を寄せると甘い薔薇のような香りが僅かにして、なんとも言えない幸せな気持ちになったのはよく覚えている。
「うふふ、くすぐったい」












