23 ノアの現在と過去
ここから最終話(28話)の前半までは、ノア視点です。
★
事件から五日後。
ルイス・ノア・オソランサは、自身の執務室で書面に目を通していた。
帝国の皇太子の執務室ともなれば、金銀宝石で装飾や象嵌された派手な部屋を思い浮かべる人も多いだろう。だが彼の執務室は石床に煉瓦の壁造りで、机や椅子は頑丈な黒檀製。部屋を飾る装飾品も、武器や鎧はあっても絵画は初代皇帝と現皇帝の肖像画だけという、がらんどうの簡素な部屋だ。
そして部屋の主、ノアも何か大事なものを失い、空っぽの人形になったかのようだった。顔は生気が抜けて白く、唇にはヒビが入っている。書類を見る目は疲れで黒く淀み、声はかすれていた。
「……やはり、にらんだ通りだったか」
「はい。私はこんなに大物が釣れるとは考えていませんでしたよ」
「男爵一人で仕出かした件にしては妙な点があったからな」
書面はボーレンヌ王家からで、今ノアの横に立っているガルベリオが、今日早馬で持ち帰ったばかりのものだ。
ガルベリオはシュールレ男爵とその関係者の人間の身柄を拘束し、王家に引き渡した。書面の内容は、ノアとオソランサ帝国が事件解決に協力したことへの感謝と、その後男爵らを尋問した結果について記されている。
今回の事件……六年前の誘拐事件も含めてだが……シュールレ男爵の狙いはやはりドレンテ伯爵家の乗っ取りだった。だがこれは男爵の独断ではなく、さる有力貴族が裏で糸を引いていたと尋問で判明したのだ。
「メルローズ嬢は『傷物』だという卑劣な噂が、あまりにも多くの人間に知られているのはおかしいと思っていた」
いくら男爵が商売を成功させており数多の貴族と取引があるからと言っても、下位貴族だけでなく上位貴族にまでその話が回っていたのは不自然だ。つまり、上位貴族にも密かに噂を広めた人物がいる。
「……それに六年前、誘拐の実行犯と庭師の人相をボーレンヌ王家に伝えて手配をしたはずが、結局誰も捕まえることができなかった」
ノアは六年前のあの事件以来、しばらく動けなくなっていた。だから他人の手を借りるしかなかったが、思いどおりには行かなかったのだ。
「先日お前たちをボーレンヌに派遣し、方々を探させてようやく見つけたろう。これは長年、奴らを匿っていた人物がいたのだろうが、男爵だけではそれが可能かと疑問でな」
ガルベリオはノアの話を聞いて満足気な笑みを見せる。
「流石は我が君です。素晴らしい洞察力をお持ちですね」
ノアは、それに対して口角の端を少しだけ上げた皮肉気な笑みを返した。
「まあ、卑劣な噂を広められるのは俺も経験済みだしな」
皇太子の側近は、急に芝居がかった仕草と台詞で嘆いてみせる。
「……あぁまったく! 殿下をあのような渾名で呼ぶ奴らの気が知れませんよ。『血塗られた~』どころか、血を見るのが嫌で刃物を使わずに槍の柄や棍棒で殴り倒すお優しい御方だと言うのに!」
「……本当にお前は、隙あらばすぐにふざけるから始末が悪い」
ノアはおどけた側近を軽く戒めた。しかし本気で嫌がっているわけではない。彼が落ち込んだ時にガルベリオのおふざけや明るさに何度も救われたのも事実なのだ。
今、ノアはまた落ち込んでいる。それを長年務めている側近には見抜かれているのだろう。
「失礼いたしました。ところで殿下、私が戻るまでの間、何も口にされていないのではありませんか?」
「流石に五日も食べていないわけなかろう」
「そうですか? 殿下ならやりかねないと私は思いますがね。とくに今回、事件解決を経てドレンテ伯爵令嬢の心の平穏が取り戻せたなら、もう何も思い残すことはないとでも考えていらっしゃるのでは?」
ピクリとノアの眉が動いたが、むっつりと黙る。ガルベリオはその横顔を見ながら柔らかな口調で言った。
「殿下。貴方には生きる義務があるのです。次の皇帝となるべき人間は殿下以外におりません。貴方には誰も太刀打ちできない強さと、他人の言いなりにならない賢さと……ちょっとわかりにくいのが玉に瑕ですが、優しさが備わっています」
「……優しさなどない。俺は他人を恐怖させる強い力とエゴを持っているだけだ。だから俺を恐れた対抗勢力が叔父上を推したのだろう?」
「いいえ、皇弟殿下では残念ながらあいつらの操り人形になるのがオチです。帝国の未来は貴方にかかっているのですよ」
「……」
黙り込んだノアの傍らには用意された茶器があった。茶は手付かずで、すっかり冷めてしまっている。ガルベリオがそれを片付けながら言う。
「新しいお茶を用意させましょう。ついでに何か軽く食べるものも。必ず召し上がってください」
「いらん。食欲がない」
「無くてもお召し上がりください。六年前にも食欲がないと言い張って倒れたのをお忘れですか!? しかも今回は槍の力を連発して体力もかなり削られているでしょう。本当に死ぬことはこの国の為にも許されません!」
最後には少し口調を強めたガルベリオは、茶器を持ち部屋を出ていった。ノアはその大きな手で顔を覆い、小さな呻き声をあげる。
「う……」
彼の全身がざわざわと総毛立つ。今、自分の心のままに暴走したならば、この両手にも顔にも黒い毛が生え、即座に獣に変身してしまうと経験則でわかっている。けれどもノアの心を占めているのは自分が獣人であることへの嫌悪感なのだ。
「こんな身体に生まれなければ……!」
まさに矛盾が彼の中でせめぎあっている。
それは、今までの十七年の人生でずっと彼の中に棲んでいた感情だった。
☆
ノアは、初めて熊に変身したのがいつか覚えていない。だが物心ついた頃には両親である皇帝や皇妃、そして侍従や侍女からも何度も言い含められていた。
「人前で変身してはいけない。変身できることも決して話してはいけない」……と。
あの時は、変身した姿が醜いからだと思っていた。今はそうではないと理解できる。
ノアが伝説の初代皇帝と同じ力を持つ『先祖返り』と知られれば、民の多くは歓喜し彼を次の皇帝に望むだろう。だが他国の人間はいつ彼に侵略されるかと恐怖に苛まれる。更には国内でも彼の力を恐れる勢力もあった。
しかし本当に注意すべき人間はそれらの勢力ではない。
幼いノア皇子は、ある日重臣の一人から秘密裏に古びた槍を渡される。その槍は、彼が手にした途端に光の槍になった。
「わあ……」
「ああ、やはり殿下は槍に選ばれし者でいらしたのですね」
「選ばれし者?」
「そうです。尊き獣人の血を引く、選ばれし者だけがこの槍を扱えるのです」
槍の神々しい光を目の当たりにしたことや、醜いものだと思っていた獣の力を重臣におだてられたことで、ノアの心が浮き立つ。
「殿下、宝探しをしましょう。イメージしてください。固い鍵に守られている金銀財宝の入った部屋を」
「うん!」
「その部屋には、宝箱の他に赤い表紙の書物もあるはずです。さあ、イメージをしたまま、槍を突いてみてください」
「う、うん……?」
言われるまま、光の槍で宙を突くと空間にヒビが入る。ボロボロと崩れ落ちたところに裂け目ができ、その向こうに本当に宝箱や書物が並ぶ景色が見えた。
「おお……!」
重臣は感激し、震える手を裂け目に伸ばす。だが向こうの景色は見えるだけで、手は透明な壁に阻まれ、中にまで届かない。
「殿下! 殿下ならこの向こうにもいけましょう。あの書物を取ってきてください!」
「えっ……」
ノアが疑いながらも裂け目に手を入れると、嘘のようにするりと向こうの世界へ入れた。深紅に染められた皮の表紙に触れると、見た目以上にずっしりと重々しい感触が手に伝わる。
直感的に、これはとても大事な……それこそ金銀財宝よりも価値のあるものだと少年皇子は考えた。彼は手を引っ込める。
「……殿下? どうされました? 早くそれを!」
「やっぱりやめた!」
「殿下!?」
ノアは槍を持ったままその場から駆け出した。彼は小さな頃から身体の大きさや足の速さを褒められており逃げ切れる自信もあった。だが何故か今日に限ってすぐに息が切れ、足が鉛のように重い。
後ろから血相を変えた重臣が追いかけてくる。その恐ろしい形相に、追いつかれ殺されると思った皇子は走りながら人を呼んだ。
「誰か! 助けて!!」
すぐに方々から侍従や侍女が駆けつけ、皇子の手に光輝く槍があるのと、彼の口を塞ごうとする重臣を目にし、全てを把握する。
幼いノアは騙され、利用されるところだったのだ。
あの部屋は皇帝しか立ち入れない宝物庫で、深紅の書物は代々の皇帝の名が書かれ受け継がれる……つまり、手にした者が次の皇帝になる証であった。












