22 メルローズの覚悟
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医師の話が終わるころには、夜の帳が下り始めていた。
部屋の扉が小さくノックされ、マスキスが「どうぞ」と言うとソフィーが遠慮気味に顔を見せる。
「お嬢様、迎えの馬車が参りました。警護隊が念のため護衛につくそうです」
「ええ、帰るわ……先生、ありがとうございました」
メルローズはマスキスに深く一礼してから顔を上げる。彼女の目は赤く、瞼は腫れていた。
「先生、明日は我が家にいらしてくださいますね?」
「ええ、もう安心だと思いますが、念のため最後に一度ジェイムズ様を診たいですし、伯爵にも先ほどの話をしなければなりませんので」
「ではまた明日。ありがとうございました」
メルローズとソフィーは用意された馬車に乗り、屋敷に戻る。ちょうど両親が帰宅し、メルローズが誘拐された話を聞いた直後だったらしい。二人は大慌てで娘を出迎えた。
「メル! 無事か!?」
「怪我をしたの!? ああ、可哀想に……」
「大丈夫よ、お父様、お母様。殿下やマスキス先生が助けて下さったの」
「殿下が……!?」
両親は驚いたが、ノアが助けてくれたというのは比喩で、実際には彼の息のかかった配下が救出してくれたのだと思ったらしい。メルローズもその勘違いを正さずにおいた。
まさか物理的に空間を飛び越えたなどと荒唐無稽な話をしたところで頭の固い父が信じるとも思えなかったし、それ以前にノアの力は秘密なのだから。
「お嬢様!! 申し訳ございませんッ!!」
彼女が切られた服から着替えようと部屋に戻る途中、下働きの娘がばたばたと走ってきてメルローズの足元にひれ伏した。
「あたしの! あたしのせいでお嬢様が危険な目に……!!」
「えっ? どうしたの?」
自分のせいでメルローズが誘拐されたのだ、と涙ながらに大声で詫び続ける下働きに困惑しつつ、なだめて話を聞いてみる。
袋叩きにされた使用人が街の人に送られて屋敷に戻り「お嬢様が誘拐された。ベスケス先生は何も知らないと仰ってた。手紙が偽物だったんだ!」と言った時。彼女には心当たりがあったのだそうだ。
「あのっ、あたし最近、ちょっと良い仲になりそうな人がいて……」
彼女がおつかいで街に下りた時、ちょっと顔のいい男に声をかけられたのだそうだ。
それが三度ほどあり、下働きの娘は「運命の出会いかも!」と舞い上がってしまった。彼がやたらと屋敷のことを聞いてくるのも、将来恋人になるならどんな仕事をしているのか気になるのだろうと思っていたそうだ。
「最近、君の所に新しい人が出入りしていないかい? えーと確か名前は……」
「ああ! ベスケス先生のことね!」
皇太子一行のお忍びは他言無用だったが、ベスケスの名前を言う事は特に禁じられていなかったので彼女はつい口を滑らせてしまった。
「その、ちょっと顔のいい男って……」
ソフィーが特徴を確認する。そしてそれはぴたりと合った。下働きの娘に男が近づいたのも、ここ最近のことらしい。ソフィーはため息をついた。
「あたしがあの男を袖にした直後に、この娘に獲物を変えたんでしょうねぇ……目的はお金じゃなくて、あたし達を騙すために情報を聞き出すことだったなんて」
メルローズは泣きじゃくる下働きの娘と、ちょっと落ち込むソフィーを励ました。
「そんなのわかるわけないもの。私も油断していたのだし、もう無事に帰ってこれたのだから良いのよ」
「っ!……お嬢様ぁ~!!」
この後、メルローズは着替えてからジェイムズの部屋を訪れる。侍女を下がらせ、二人きりになった。
「姉様! 無事でよかった……!」
ジェイムズの白い顔が更に青ざめている。彼も誘拐の件を聞いていたのだ。
「ジェイムズ、心配をかけてごめんなさい。でももう大丈夫よ。殿下が助けて下さって、犯人も捕まったの」
「殿下が……?」
ジェイムズの目がきらりと光る。メルローズはその目の輝きが、甲虫を見た時に似ていると思ったことを思い出した。
「貴方は殿下の秘密を知っていたのね、ジェイムズ」
「……ちぇっ、なあんだ。姉様は知らないと思っていたのに」
「ええ、知らなかったわ。さっき見せてもらうまでは」
「だから言っただろう? 殿下はすごくカッコイイって!」
「貴方は……怖くないの?」
弟はきょとんとした。
「え? 怖いの? ……あ、そうかごめん。姉様は昔、熊の姿の殿下に大怪我をさせられたんだもんね……それは怖いよね」
「いいえ、違う! だってノワールは私を助けてくれたのよ! 今も昔も、彼は優しいわ」
「じゃあなんで怖いなんて言い出したのさ?」
メルローズは弟の言葉にハッとする。
「ええ。私……なぜ怖がっていたのかしら……」
彼女は自分の中のモヤモヤとする感情と向き合った。今、弟に言ったことに嘘はひとつもない。ノアが巨大な獣に変身した時には恐ろしいなんて思っていなかった。
怖かったのは……それよりも前と後だ。彼が武器を放り出し、好きにしろと座り込んだ時。自分のせいで彼の命が無駄死にになると思った時。……そして、ノワールがダスティンを殺そうとして、思わずメルローズが止めに入った時。
(ああ、それで……)
メルローズは漸く答えにたどり着いた。
「ジェイムズ、ありがとう」
「? なんの事かわからないけど姉様の役に立てたなら嬉しいよ」
「ええ、とっても。私の人生は貴方のお陰で素晴らしいものになったのよ」
「ええ? なんだか照れるなぁ」
メルローズはジェイムズの手を握って、心の中で付け足した。
(だって貴方を喜ばせたくて甲虫を採りに行ったからノワールに……ノア様に出会えたんだもの)
★
翌日、メルローズは両親と秘密裏に話をした。そしてその後、マスキスの訪問を待つ。
医師がやってきてジェイムズの診察を終えた後、彼女は声をかけた。
「あの、先生。少しだけお話をさせて下さい」
「何でしょうか?」
「先生は、この後帝国に戻られるのですよね?」
「はい。ガルベリオ様が明日には迎えに来られる予定なので、一緒に戻ります」
「……マスキス先生。先生は昨日、私に覚悟はおありですかと訊かれましたね。あの時の私は、覚悟をしているつもりでした。でもお話を聞いた後……自信がなくなりました」
「そうですか……」
マスキスは、少しだけ落胆したように見えた。
「仕方ありませんね。正直に話してくださり、ありがとうございます」
「待ってください! 違います!」
「えっ」
「その後、考えてみたのです。私は何を恐れているのか、何に自信が無いのか……でも自信なんて関係ないのだとわかりました。私の覚悟は決まっています。もう、迷いません」
「……そうですか」
マスキスは笑顔になった。今まで彼女が見たことのないほど、良い笑顔だった。その様子に彼は心からノアを患者として心配し、そして同時に主として尊敬し、かしづいているのが伺えた。
それでメルローズも思わず良い笑顔になった。












