2 メルローズの過去
※流血シーンがあります。苦手な方はご注意下さい
「おうちにお帰り。もう罠にはかからないようにね」
最後にお別れのつもりでそう言ったのだが、黒い犬は森を出るまでメルローズについてきてしまった。
(困ったわ……どうしよう)
ジェイムズは気管も弱くしょっちゅう喘息を起こすので、屋敷で犬を飼うなど無理だと、両親に訊かなくとも彼女には予想がついている。
困った彼女は藁にもすがる思いで庭師に相談しようと、もう一度彼の家を訪ねた。
(ぎっくり腰ならきっとベッドで一日寝ている筈だわ。私がノックして彼がわざわざドアを開けに立つのでは可哀想ね)
そう思い勝手にドアを開けると、意外にも庭師は椅子に腰かけ、メルローズの顔を見て酷く驚いていた。
「あら、もう腰は良くなったの?」
「え、ええ、大分……」
「実はね、森の中で犬を拾ってしまって……でもうちでは飼えないし、どうしたら良いと思う?」
メルローズは庭師が「犬を飼う」と言ってくれないかと期待したのだが、その犬は警戒して家に入ろうとしないし、腰を痛めた庭師が犬に歩み寄ることもできない。彼は座ったまま遠くからチラと犬の様子を見るだけで、特段興味がなさそうだった。そして暫くするとニヤリとしてこう言ったのだ。
「……あ! 良いことを考えましたよ。猟師小屋は今誰も使っていませんから、そこで飼えば良いんじゃないですか?」
メルローズは両親に秘密でこっそりと犬を飼うことにした。
「ノワール! 元気にしてた!?」
「くぁん!」
猟師小屋にパンや肉と蜜を持っていくと、ノワールと名付けた犬はご機嫌で寄ってくる。
「まあ、泥だらけじゃない。どうしたの?」
彼女はノワールの身体についた落ち葉や土を払ってやり、またモフモフの黒い毛皮を撫でる。
「くぅ……」
ノワールはうっとりと目を閉じ、幸せそうだったし、それを見たメルローズも心が温まった。
そうして森の中を散歩したり、一緒に木登りをしたりしてひとしきり遊んだあと、帰りはいつも森の外れまで送ってくれる。ノワールは賢い子で、メルローズと別れたあとは自力で猟師小屋に戻れるのだった。
「あら?」
帰り道、ノワールと歩いていて彼女は道に大きな穴が空いているのに気づいた。以前はなかった穴だ。それにかなり深さもあり、もしもメルローズが落ちたら自力で這い上がれないのではと思う程だった。
「うわあ、危ないわね。落とし穴みたい」
そう言ったあと、ふと泥だらけの犬を見たメルローズは思った。
(まさかこれ、ノワールが掘った穴じゃ無いでしょうね?)
それなら彼のひどい汚れも説明がつく。ノワールは犬としては結構大きく、ずんぐりむっくりな体型だが、かなり力は強いのであり得ない話ではない。
「ノワール、こんなところに穴を掘ったらダメよ? めっ!」
「う? ……くぅ……」
彼は不満げな、悲しそうな顔をした。
そうしてノワールと過ごす時を楽しんでいたある日。
メルローズが森に向かうと、明らかに様子がおかしい。遠くからノワールの叫び声が聞こえてくる。まるで、来るな、と言っているように。
「ノワール!?」
思わず駆け出したメルローズ。猟師小屋が見えたところで足に何かを引っかけた。その瞬間、彼女の身体が網に絡め取られ宙に浮く。
「きゃあああ!」
「グワウ!」
初めてノワールと出会った時に彼が捕われていたものとそっくりな網に吊り上げられたメルローズはすぐに気がついた。
(これ、罠だわ! でも何故こんなところに!?)
網の隙間からノワールを見る。彼は猟師小屋に鎖で繋がれていた。必死で吠え、鎖から逃れようと何度も引っ張っている。ずっとそうしていたのだろう。既に彼の首の辺りは鎖で毛が擦りきれ、血が滲んでいた。
「はあ、やっと捕まえたぜ」
「このワン公が何度も罠を邪魔してくれるんで手間がかかっちまった」
「グルルルル! グワァウ!」
猟師小屋の影から人相の悪い二人組の男が現れる。メルローズは血の気が引いた。今、この男達は「やっと捕まえた」と言った。つまり彼女を狙って何度も罠を仕掛けていたということだろうか。そもそもドレンテ伯爵家の敷地の森なので、知らない人間が簡単に入ったり、ましてや罠を仕掛けるなんてことができるはず無いのに。
「ほら、お嬢ちゃん、大人しくしてれば痛い目には合わせねえから、言うことを聞くんだぜ」
男達は罠からメルローズを助け出しはしたが、がっちり腕を掴み、どこかへ連れていこうとする。
「ガウウウ!!」
「ノワール! ノワールの鎖を外してあげて!」
「あんな凶暴な獣、自由にさせるわけ無いだろうが。さ、行くぞ」
「グルルルァ!!」
ノワールが大きく吠え、力を振り絞り引っ張ると、鎖がバツンと音をたてて引きちぎられた。
「ガウ!」
そのまま凄い速度で男とメルローズに向かい駆け寄ってくる。あっという間に距離を詰め、後ろ足でジャンプして男達に襲いかかろうとした。
「うわっ!!」
男のひとりが咄嗟にメルローズを盾にする。ノワールの振り上げた前足の爪が彼女の肩と男の腕を切り裂く。メルローズの肩に焼けるような痛みが走った。
「きゃあっ!」
「ああっ!! 痛えっ、この野郎!」
「グルルルァ!!」
「だ、だめだ……逃げろ!」
「えっ、だって、娘は」
「とりあえず依頼者に連絡だ!」
男達はメルローズを放り出して逃げていった。彼女は痛みのあまり、地面から起き上がることも出来ない。肩に手をやると血が吹き出しているのがわかる。傷口に心臓があるかのようにどくどくと脈を感じ、熱い。
(私……死んでしまうの?)
身体に力が入らなくなり、意識がぼんやりとしてきた。肩に当てていた手がゆっくりと地面に落ちた時。
「メル、メル! しっかりして!!」
聞いたことの無い声が自分を呼んでいる。同時に布を破るビリッという音も聞こえた。返事をしようとしたが声が出ない。
「ごめんメル……君を傷つけるつもりじゃなかったんだ。ごめんなさい……」
震える涙声で謝る、少年の声。彼は謝りながらも彼女の身体を抱き起こし、傷口に布か何かを巻いている。意識が朦朧としている彼女でも、手当てをしてくれているのだとわかった。
と、メルローズの額や頬にぽと、ぽと、温かいものが落ちる感触がある。彼女を覗き込む少年の涙かもしれない。彼の顔を確認しようとしたが、逆光で姿が見えなかった。ただ、あの柔らかい黒い毛が見えたような。
「ノワー……ル?」
覚えているのはそこまでだった。