19 変身
ヒロインが少しだけ流血 & 悪役は結構な流血をするシーンがあります。苦手な方はご注意下さい。
変わらずノアは余裕の笑みをたたえている。メルローズにとってそれは安心するものだったが、ダスティンにとっては恐怖の対象以外の何物でもない。彼は狼狽えながら要求を増やした。
「クソッ!! 動くな! 一歩も! ちょ、ちょっとでも動いたらこいつを殺すぞ!!」
「お前の言うことを全て呑めば、メルローズ嬢を傷つけないと約束するのか?」
「……あ、ああ、そうだ。そうさ! 俺だってこいつを殺したくはないからな」
「……」
ノアはどかりと床に座り込んだ。
「好きにしろ。約束は守れ」
「!」
「へへへ、素直じゃないか」
再びメルローズの身の毛がよだつ。ダスティンは約束を守るような人間ではない。このままではノアが殺されてしまう……しかも無駄死にだ。それがわかっていて何もしないでいるなど、彼女にはとてもできなかった。
「だめですノア様! 私の事なんて気にしないで!」
「おい、この男を縛れ!」
「やめて! お願いノア様、逃げて!!」
メルローズは必死に訴えかけたがノアは座ったまま動こうとしない。配下の男がノアの後ろから縄をかけようとしている。彼女はこのままなら自分が死んだほうがましだとさえ思えた。
(私さえいなければ、ノア様は助かるわ……)
思い切って舌を噛み自害しようかと思ったその瞬間。噛むという行為をきっかけに過去の記憶が甦る。
「いいですかお嬢様。次に誘拐されそうになった時には思いっきり相手に噛みついておやりなさい」
「噛みつく……?」
「そうですよ。相手の腕でも手でも足でも、とにかく目についたところを思いっきり噛みついてやるんです。食い破る気持ちでね」
「そんなの怖いわ。うまくいくかしら」
「そりゃあ効果覿面ですよ! 普通のご令嬢は誘拐されたら気を失ってしまうものです。気を失わなかったとしても、せいぜい何もできず泣いたりするしか無いでしょう。だから噛みついて反撃するなんて相手は予想もしていないですからね」
彼女が誘拐された後、外の世界が怖くてなかなか外出できなかった頃。ベテランの侍女がこう教えてくれたのだ。おそらく侍女も本気ではなく、対抗手段があると思えば少しは外が怖くなくなるだろうという励ましのつもりでメルローズに言ったのだろうが。
だが今この時。まさに教わったことが役に立つ場面だった。侍女の言ったとおり、ダスティンはメルローズが反撃などできないと高をくくっている。彼女は躊躇なく、首に回された腕に噛みついた!
「ぎゃあっ!!」
完全に油断していたダスティンは左腕の激痛に耐えられず、右腕に構えていたナイフの手元が狂った。メルローズの胸元から右肩にかけて、一本の焼けた鉄線を押し付けられたような熱い痛みが走る。
「うっ」
ダスティンの拘束から逃れた彼女が目を下に落とすと、服の胸元が切り裂かれ、そこから血がたらりと流れ出るところだった。六年前の左肩に比べれば、かなり浅い傷だ。
「メル!!」
浅い傷だったのに。
先ほどまで余裕を見せていたノアは彼女の血を見た途端、この世の終わりのような声で彼女の愛称を呼んだ。
そして青ざめた顔から言葉にならない声がこぼれ出る。
「あ、あ……ア、アア」
その言葉がひとつ出る度に彼の巨体が更にむくりと膨れ上がる。やがてその口からは言葉ではなく獣の咆哮が放たれた。
「あう……ぐ、ぐ、グルアアアアア!!」
メルローズは痛いほど鼓膜を揺らす彼の叫びに耐えながらも、目をしっかと見開きノアの様子を見つめた。目が離せなかったのだ。
彼に半端にかけられていた縄が、身に着けていた衣服が。その膨れ上がった身体に耐えられずぶちぶちと音を立てて引き裂かれる。露わになった彼の首元には、まるで茨のネックレスを着けたようにぐるりと傷が一周していた。その、桃色の傷を除いて皮膚から黒い毛が生え、あっという間に全身を覆っていく。
「うわあああ!!」
「バ、バケモノ……!」
最後に残った大柄の一枚布が彼の身体からハラリと落ちる。巨大な熊の姿に変身したノアを見て、ダスティンとその配下は腰が抜けながらも逃げ出そうとしていた。
「ガアアア!!」
だが当然のように熊は彼らを逃さない。男達に飛びかかると次々に鋭い爪を奮う。鮮血が床や壁に飛び散った。
「ぎゃああ!」
「痛え……」
「た、助けてくれ……!!」
腰から脚にかけて熊の爪で大きく抉られたダスティンは、立ち上がることもかなわない。必死に床を這いずり出口に向かおうとするが、その背中の上にどしりと熊の前肢がのしかかる。
「うぁ……」
1ミリも進めなくなったダスティンは思わず首を捻り、頭上を見上げた。鼻の先でギラリと光る二つの目と視線がかち合う。
「ひっ」
「ガルルルル!」
獣が唸り声をあげながら、口をがぱりと開いた。彼の頭をひと呑みにできそうなほど大きく裂けた口中で、牙と牙の間から唾液が滴り、生温かい息がダスティンの顔を撫でる。
「……っ――――」
ダスティンは白目を剥き、気絶した。
しかし熊相手に気絶や死んだフリをしたところで効果は無い。そのまま獣がダスティンに牙を突き立てようとしたその時。
「だめ! ノア様……ノワール!! めっ!」
後ろ手に縛られたままのメルローズが必死に駆け寄り、熊に体当たりした。勿論、非力なメルローズが体当たりしたところで熊の巨体はびくともしない。ただ、モフッとした黒い毛皮が彼女を受け止めただけだ。
だがしかし。それまで毛を逆立て殺気を迸らせていた熊が、嘘のように大人しくなった。
「が……あ?」
「だめ……お願い。殺さないで。あ、貴方がこの人を殺してしまったら……」
「がう……」
彼女の震えと涙が、毛皮越しに伝わったのだろうか。熊は気絶した敵から前肢をおろすと後ろに戻り、床に落ちていた一枚布を口に咥えた。そのまま頭を大きく振る。
ふわり、と布が宙に広がりメルローズの視界を大きな柄模様の刺繍が埋め尽くす。それがサッと目の前から引かれると、黒い巨大な熊は布を身体に巻きつけた美丈夫の男性の姿に戻っていた。
「ノア様……」
ノアは美しい顔を苦悩に歪め呟く。
「怖い思いをさせてすまなかった……」
「え?」
メルローズは聞き返したのだが、彼はそれに応えず隣の部屋へ行ってしまった。
「お嬢様!」
すぐに隣の部屋から半泣きのソフィーが飛び出してくる。メルローズと同じように腕を縛られていたのだろう。手首の赤い痕が痛々しい。
ソフィーは家の外にメルローズを連れ出し、縛っている縄を切ったり自分の外套でメルローズをくるんだりと甲斐甲斐しく世話をする。その間もずっと鼻をすすり上げていた。
「申し訳ありません。あたしがあの手紙を怪しいと気づかなかったばっかりに……」
「いいえ、私も気づけなかったもの。危機感が足りなかったわ」
「ほんっとうにお嬢様がご無事でよかった……殿下がいらっしゃらなかったらどうなっていたか」
メルローズは家の方を向く。
「殿下は?」
「奴らを縛り上げているそうです。もうすぐ迎えが来るから、外で待っているようにと」
その言葉通り、暫くすると警護隊を引き連れたマスキスがやって来て、メルローズ達は保護された。
だが、警護隊が中に踏み入ると、縛られたダスティンとその配下の男しかいなかったそうだ。
ノアは煙のように消えていた。












