13 伯爵の後悔
「……それと、ガルベリオ、例のものを」
「はい」
ガルベリオがカバンから二冊の本を取り出す。どちらも装丁が頑丈そうな本だが、片方は比較的薄く装丁に飾り気のないもの。もうひとつは小型だが厚みが普通の本の三倍はゆうにあった。
「心苦しいというならば、メルローズ嬢はこれでも読んで勉強してくれ」
「これは?」
「薄い方はオソランサの歴史を初心者向けに解説した歴史書だな。我が国ではポピュラーなものだが、オソランサの独自言語で書かれている。かなり大陸共通語と似通っているが、一部読み取れない単語があると思う。この厚い方は辞書だ。わからなければこれを引きながら読めばいい。大陸共通語なら文字は読めるな?」
「は、はい」
歴史書と辞書を渡され、メルローズは呆然とした。
(勉強をするのは良いけれど……やっぱりこれだけでは恩を返したことにはならないのでは?)
彼女の疑問が顔に出ていたのか、ノアは付け加えた。
「俺の友人になるなら、多少はオソランサの知識も持っていて貰いたいからな。今はそれに励めば充分だ」
そうすまして言うノアの後ろで、対照的にガルベリオがニヤニヤしている。
「そうそう。妃教育なんかじゃありませんからね。気楽にやってくださいよ」
「ガルベリオ!」
ノアが少し焦っていたような気がするが、本当にそうかはわからない。メルローズは真っ赤になってしまい、ノアのほうを見られなかったから。
★
「見送りは不要です。私たちは表向き、数年に一度だけしか現れないが、代々のドレンテ伯爵と縁のある旅の商人ということにしておいて下さい」
ガルベリオは今回の訪問を決して外部に漏らさないように、とドレンテ伯爵家の皆に念押しをした。
「マスキスは見聞を広げるために私たちと同行していた学者ですが、ドレンテ伯爵領の成り立ちと歴史に興味深いものを見つけたので暫く近くの街にとどまる……という設定で滞在場所を確保します」
伯爵はせめてマスキスをもてなしたいのでこの屋敷に滞在してくれないか、と懇願したのだが、はっきり断られた。
「今は疑われるような行動はできるだけ慎むようよう願います」
「疑われるとは、誰に」
「伯爵、私たちはオソランサ人です。まだ証拠を掴んでいない状態では明言できません。下手をすれば過干渉による侵略行為やボーレンヌ国内を乱そうとする内部工作だと取られかねませんからね。そもそも、伯爵は既にお心当たりがおありでしょう」
「……」
皇太子一行が去ったあと、伯爵はむっつりと黙ってしまった。顔色がどんどんと悪くなり……しまいには手で顔を覆い、細かく震えながら嗚咽を漏らしたのである。メルローズの母が夫に寄り添う。
「あなた……」
「……俺の事はどうでもいい。だが、ジェイムズを思うと……俺が迂闊だったために……」
「大丈夫よ、あなた。だってマスキス先生は名医なんでしょう? きっとジェイムズは良くなるわ~」
おっとりとした妻が明るく言って見せたので、伯爵は顔色がなお悪いまま、力無く微笑んだ。
「そうだな……メルローズ」
「はい」
父は娘に向き直る。そして頭を下げた。
「今まですまなかった。お前は何度も忠告をしてくれていたのだな……それなのにお前が男爵令息を気に入らないのは、ただのわがままだと思い込み、お前の意見をないがしろにしていた」
「! お父様」
「俺はお前の事を、まだまだ小さな、守るべき子供だと思っていたのかもしれない。もっとお前の言うことに素直に耳を傾けるべきだった……」
父が泣くところも、そして自分に謝罪するところも初めて見たメルローズは戸惑った。そして、一拍の間を置いて彼女は愛する両親に駆け寄る。
「いいえ、お父様。私も意地を張っているところがあったわ。それにお父様は私をないがしろになんかしていないわ。だって殿下に言ってくださったでしょう?」
メルローズの目が潤む。
「娘もやれず、見合った金品も差し出せずでは……と。あれは私の意思を尊重してくれたのだとわかったの!」
彼女が皇太子の求婚を退けたと知った時に、あれだけ怒っていた父。だからノアがこの家に来た時に喜んで「娘を是非娶っていただきたい」と言うのではないかとメルローズは思っていた。
だが、父はノアの迫力に負けながらも必死で「恩を返せないかもしれないのだから、こちらだけがメリットのある話を受けることはできない」と言い切ったのだ。
「……ああ。なんとなくわかったんだ。殿下がお前を見る目と、お前が殿下を見る目で……」
ドレンテ伯爵は娘の頭を撫でる。小さい頃によくそうしてくれて、メルローズはそれが大好きだったのを思い出した。
「メル、お前は殿下と想いあっているのではないか?」
「……はい。あの、出会ったばかりですけれど」
「それなのに結婚の話を断ったのには、理由があるんだろう」
メルローズは、今までノワールにしか打ち明けていなかった理由を話した。
それを聞くうちに、ゲッソリとしていた伯爵の顔がみるみると赤くなり、雷が落ちかける。
「馬ッ鹿も……!!」
しかし雷が落ちる寸前。伯爵はハッと気がついて言葉を飲み込んだ。あまりにも飲み込んだものが大きすぎたのか、むにゃむにゃと何か口の中で呟いている。
「いかんいかん、そもそも他人を無条件に信じて騙されていた俺のせいだ。メルは悪くない……」
伯爵の様子を、夫人と娘は目を丸くして見つめていた。やがて彼は自分の中で折り合いがついたのか、ふうと大きく息を吐き、言葉を継ぐ。
「メル、ジェイムズの死の可能性を口に出したら本当になるような気がして言えなかったという気持ちはよくわかる。……俺もそうだった」
「お父様も?」
「ああ、だが俺は俺なりに考えてもいたのだ。もしもジェイムズに何かあったら……その時はお前に継がせてもいいが、逆に継がせない道もあると」
「え!?」
「別に親戚筋から誰かを貰い、養子縁組をして爵位を継承することなどよくある話だ。お前がひとりで伯爵領の責任を負う必要など、どこにもないんだぞ」
「メル、私たちはね、あなたが無理をして爵位を継ぐくらいなら、爵位のことは気にせずに好きな人と幸せな結婚をしてくれた方が嬉しいのよ~」
「……」
両親に言われてメルローズはかくりと力が抜けそうになった。
「そんな……じゃあ、私が今までひとりでずっと考えていたことは無駄だったの……?」
「それを言ったら俺たち夫婦も空回りしていた。……いや、俺たちはお前の親なんだから、お前の気持ちに気がつくべきだったんだ。すまなかった」
「……うっ」
メルローズの中で、今まで必死に積み上げていたものが壊れていく。だがそれは悲しいものではなかった。
今まで、たったひとりで戦うために作っていた高く厚い壁を取り壊してみれば、すぐそこには味方である父と母が居てくれたのだ。そのことに彼女は気がついていなかっただけ。
メルローズは父と母に肩を抱かれ、子供のようにわんわんと泣いた。












