11 ノアと伯爵の対峙
「……だが、俺が君の友人であると知られれば、そんな馬鹿げた噂を信じる者は減ると思う」
「!」
「実は、出会ったその日に求婚はやりすぎだとそこのガルベリオに説教をされてな。もう少し友人として互いの理解を深めてから、改めて返事を貰えないだろうか。もちろん、その上で求婚を断わっても構わない。その場合は潔く諦めよう」
「……」
メルローズはまたうつむいた。
(どうして、私にそんなに良くして下さるの……)
彼女の心が千々に乱される。ノアとの繋がりが続くなら嬉しい。けれどここまでしてもらっても、彼の気持ちに応えることはできない。本当は今すぐにでも「私も殿下をお慕いしています」と告白したいぐらいなのに……と。
苦しむ彼女の気持ちが横にいた父に伝わったのだろうか。ドレンテ伯爵が深々と頭を下げる。それにあわせて伯爵夫人も、メルローズも頭を下げた。
「お申し出は大変ありがたく、光栄なお話です。殿下のお心の広さには感服致しました。しかし、そこまでしていただきながら断って構わないというのは前例がございません」
ノアは事も無げに言う。
「前例がなければ作れば良い。女性に求婚を断られた程度で俺のオソランサでの威信が揺らぐとでも?」
空気がピリッと引き締まる。
両親が頭を上げたのを感じとり、メルローズも頭を上げる。その時父が小さく震えているのに気がついた。ドレンテ伯爵は膝を握りしめ震えを抑えつけ、皇太子をまっすぐに見据えて答える。
「いいえ、そのように考えたこともございません。しかしご提案をお受けすれば娘が一方的に殿下の威光を借りる形になってしまいます。恥ずかしながら私どもにはそのご恩をお返しできる当てがございません」
「ほう、返せないと?」
「はい。我がドレンテ家は特に財に恵まれているわけではございません」
その後、伯爵は慌てて付け加えた。
「もっ、もちろん、殿下が金品の見返りを考えているとは思いません! しかし娘もやらず、見合った金品も差し出せずでは、他に何が出せるでしょう。私の忠誠心は、既にボーレンヌ王家に捧げております」
「なるほど。俺はそのボーレンヌ王家の血も引いているが、俺に対しては膝をつけないと言う訳だ」
「確かに殿下は王家の血を引かれる尊き御方ではございますが、それ以前にオソランサ帝国の未来を担うお立場でございましょう。私は殿下に『いついかなる時も忠義を尽くす』とはお約束できないのです」
「……」
ノアは鋭い視線でじっと伯爵を見つめた。あの、バルコニーでメルローズの目を覗き込んだ時のように。
「伯父上から聞いている。ドレンテ伯爵家は代々が王家直轄領の裏側を任せられる忠義に厚い家系だが、その中でも当代伯は実に真面目な人物だと」
「なっ、陛下が私の事をそのように評価なさって……!?」
ノアの言う伯父上とは、ボーレンヌ国王の事で間違いないだろう。伯爵はのぼせ上がった。
「たっ、大変光栄で……」
「だが、真面目も過ぎると少々の欠点になるようだ。ドレンテ伯は損をする方へばかり動いている」
「え!?」
「六年前、メルローズ嬢が傷を負った事件の話だがな。当時、詳細は他言無用とボーレンヌ王家から言い含められていたのだろう?」
上気していた伯爵の顔色が一気に白くなった。
「……はい、その通りでございます」
「他言無用を貫いたのは良いことだが、メルローズ嬢本人に今日まで隠していたのはいささかやり過ぎではないか?」
「えっ、あ、いや……」
「それともうひとつ。ドレンテ伯は今のやり取りで真面目で誠実なのだとよくわかった。しかし自身が誠実に対応しているからといって、相手が必ずしも誠実さを返してくれるとは思わないことだな」
「!」
ノアはまた固く冷たい表情に戻ってしまった。
「相手を選ばず誠実に振る舞う前に、その相手が信頼に足る人間なのかよく見定めることだ。でなければ足元をすくわれるぞ」
「……それはどういう意味で」
「ただの経験談だ。向こうがどんな下心を隠しているかわからぬ内は、常に裏切りの可能性を考えておけ」
「……」
「まあ、その点で言うなら、俺の目的はわかりやすいぞ。メルローズ嬢が下卑た噂を広められ困っているなら助けになりたいと思っただけだ」
その後、彼ははほんの少しだけ口角の片側を上げて見せた。
「もちろん、あわよくば彼女との距離を縮めたいという下心もあるにはあるがな。だから俺の提案については、安心して乗って貰って構わない」
★
メルローズは屋敷の中を案内していた。
ノアが「ドレンテ伯の後継はここにはいないのか?」と訊き、ジェイムズが臥せっていることを話すと、是非会いたいと言い出したのだ。
「ここに偶然マスキスもいる。彼の医師としての腕はこの大陸でも三本の指に入る。是非、弟君を診て貰うといい」
ノアはそう言ったが、果たしてそれは偶然だったのだろうか。マスキスの両腕に下げられた大きなカバンをみると、どうも準備万端でやってきたように思えるのだが。
(不思議。どうして……)
メルローズは夢を見ているのではないかと思った。それくらい自分に都合が良すぎる……この六年、何をやっても裏目に出ていたのが嘘のようだ。
今までずっと出口の見えない暗い迷路を彷徨ってきたのに、彼女が過去の自分を取り戻そうと決意した途端、急に道が開け、救いの手が光の見える方向へ引っ張ってくれているように思えた。
彼女はそこでふと、その転機はなんだったのかと考え、すぐにあのモフモフの黒い毛皮の手触りを思い出す。自然と頬が緩んだ。
(ノワールだわ。ノワールが私に幸運を運んでくれているのかもしれない)
「メルローズ嬢? 何を考えてる?」
柔らかな低い声と、お日様の匂いがすぐそばで感じられてメルローズはドキッとした。いつの間にかノアが触れそうなほど近くにいて、自分の顔を見つめている! 彼女は頬を赤らめながら飛びすさるように後ろへ下がって距離を取った。
「も、申し訳ございません! 殿下の前で考え事など……」
「いや、別に構わないが。難しい顔をしたかと思うと、ニコニコし始めたのでどうしたのかと思っただけだ」
「お恥ずかしいところをお見せいたしました」
「いいや? 可愛かったが」
「かわっ……!?」
赤い頬が更にかあっと熱を帯びて行くのがメルローズ自身にもわかった。
「殿下、からかわないでくださいませ!」
「からかってなどいないが。ところでもうノアとは呼んでくれないのか?」
「!」
畳み掛けるようなノアの攻撃に胸のドキドキが止まらず、真っ赤になってうろたえるメルローズ。彼女の脳裏に「この人はさっきまであのお父様を威圧していた人と同じかしら」という考えがチラリと浮かぶ。
今のノアは父に厳しい言葉を突きつけていた時とはうってかわって雰囲気が柔らかい。
(そんな優しい目で見ないでほしい……)
このままではもっと好きになってしまうから、と悩む彼女の視界の端に、ジェイムズの部屋の前で侍女が合図をするのが見えた。皇太子を迎える準備が整ったのだ。メルローズは慌てて言った。
「殿下! 弟の部屋へご案内いたします」
「……ああ」
少しだけ残念そうなノアと、何故か楽しそうなガルベリオ、表情を全く変えないマスキスと護衛を連れ、メルローズはジェイムズの部屋に向かう。












