10 ノアの来訪
その夜から翌朝にかけて、ドレンテ伯爵家は上を下への大騒ぎだった。
なにせ一応名門を名乗ってはいても田舎伯爵には違いなく、現伯爵の代ではボーレンヌ王家の傍系ですら屋敷への来訪は無かったのだ。それが非公式とはいえ、隣国の皇太子が突然やってくるというのだから。
休暇予定だった使用人も休みを返上し、全員がくるくると忙しく働いた。サロンに一番よい家具を運び込み、家中を掃除し、夜を徹して菓子を仕込み……。
一方でメルローズは早い時間にベッドに押し込まれ、絶対に睡眠不足にならないようキツく言われた。
「殿下に寝不足の顔など決して見せてはいけませんからね!」
侍女に怖い顔でそう言われたものの、メルローズはノアに会えると思うとドキドキしてなかなか寝付けなかったのだが。
それでもなんとか眠りにつき、翌朝起きればすぐさま侍女が飛んでくる。もしかして本当に徹夜をしているのでは、とメルローズは心配になった。
「お嬢様! 身支度を!」
手持ちの中で一番上等な、それでも王都の貴族たちに比べればかなり地味であろうデイドレスを着せられる。更に念入りに化粧を施されたメルローズがやっと解放されて部屋から出てみると、使用人たちはまだバタバタとしていた。
どう考えてもそんなところは見ないだろうと思うような細かいところまで、家の隅々を磨き上げ、あちこちに花を活けている。
そんな使用人たちの中で香水の瓶を手に持ちオロオロと右往左往している下働きの娘がいた。彼女に気がついたメルローズは声をかける。
「その香水、どうしたの?」
「あっ、お嬢様。奥様が香水をお屋敷じゅうの床に撒いたらどうかって仰るんです。でももったいなくて床に撒く勇気が出なくて……」
「えっ」
メルローズは仰天した。確かにやんごとない人をお迎えするのだから何か特別感を演出したい気持ちはわかるが、流石にやりすぎだ。 それに香水の匂いがぷんぷんと立ちこめていたら、ノアのあの、気持ちのよいお日様のような匂いがわからなくなってしまう。
……そう考えてメルローズは気がついた。
(私ったら!! 結婚をお断りしたのに!)
結婚の申し込みを断った以上、匂いがわかるほど近づくことも無いだろうに、つい彼に近づくことを考えた自分に恥ずかしくなったのだ。彼女は顔を赤くしながらも下働きに命じる。
「それはやめておきましょう。殿下は普通の方より鼻と耳が利くそうよ。ご自分で仰っていたもの」
……嘘は言ってない。確かにノアはそう言っていた。きっと冗談なのだろうが。
下働きの娘はメルローズの言葉を聞いて悩んでいた顔をぱっと明るくした。
「まあ、そうなんですか! じゃあやめときますね!」
「ええ、お母様には私から伝えておくわ」
かくして『屋敷中に香水を振り撒く田舎伯爵とその夫人』という不名誉な称号がドレンテ伯爵夫妻に付けられる事態は回避された。
★
午後、馬車の一団が来た。
馬車には王家や帝国の紋章は入っておらず、しかし金がかかっていると一目でわかる代物だった。どちらかというとシュールレ男爵が乗っているものに近い、裕福な商人や下級貴族向けという雰囲気だ。
護衛をしている人たちも変わった衣服を身に着けている。オソランサのものとも違う、簡素な上下服の上に模様入りの大きな一枚布を巻き付けた異国風の出で立ちだった。
馬車から降り立った三人の男性も同じ衣装を着ていた。皇太子と、彼より数歳上と思われる細身の男性、そして両手に大きなカバンを持った知的な雰囲気の壮年の男性である。
「やあやあ、ドレンテ伯爵、お久しぶりです。わざわざ私ども商会のために出迎えに来て下さるなど大変嬉しいです!」
細身の男性のその言葉で、皇太子一行を出迎えようと玄関の外で待ち構えていたメルローズと両親、そして使用人たちはハッとした。これは要人のお忍びである。皇太子の身に万が一があってはいけないと、彼らはわざわざ変装をしてきた事に漸く気がついたのだった。
――――ノアが変装をしてきたのには実はもう一つ別の理由があったのだが、メルローズがそれを知るのはもっと先の事である――――
「では早速商談とまいりましょう! 今回は異国の品を沢山お持ちしましたので奥様もお嬢様もきっとお気に召していただけると思いますよ」
「あ、ああ、入りたまえ……」
細身の男性は気さくな商人の真似をして見せたので、伯爵も何とか話を合わせて彼らを引き入れる。
一行を屋敷の中に招き入れ、サロンに通して着席したところで客人の雰囲気ががらりと変わった。対面に座す『血塗られた皇子』の迫力に、親子ほど年の離れた伯爵が気圧されている。その皇子が口を開いた。
「では、改めて名乗ろう。オソランサ帝国のルイス・ノア・オソランサだ。こちらの者はガルベリオ、そして俺の侍医を務めているマスキスだ」
ノアの紹介に合わせ、細身の男性ガルベリオと、壮年の男性マスキスが軽く頭を下げる。と、頭を上げたガルベリオが飄々とした雰囲気で凄いことを言いだした。
「先日はドレンテ伯爵令嬢に対して我が君が失礼なふるまいをしたようでして。本日はそのお詫びに参りました」
メルローズはじめ、ドレンテ伯爵家の全員がぎょっとした。どう見ても側近らしきガルベリオが、主である皇子の前でそんな軽口を叩いてよいのか、不敬だと怒られないかと。伯爵が慌ててとりなす。
「いや、失礼だなんてとんでもない。こちらこそ娘が失礼な真似を……」
「失礼な? ご令嬢が何をしたと仰るのですか?」
「あ? え……あの」
なんとガルベリオの矛先が、彼を擁護をしたはずの伯爵に向かった。伯爵は更に慌て、もごもごと口の中で呟くしかできない。「そちらの娘がどんな失礼をしたのか」と問われて「皇太子の求婚を退けた」と本人の前では口が裂けても言えないだろう。
それは失礼どころの話ではないからだ。本来、未婚で婚約者も恋人も特にいない年頃の貴族令嬢には、友好国の皇太子からの求婚を断るという選択肢は無いのだから。
「伯爵?」
「あ……ええと」
額から脂汗を垂らし始める伯爵を見て、ノアの目がキラリと光り、口元が弛み、ついにはふきだした。
「ふ、ハハハッ。ガルベリオ、そのくらいにしてやれ。お前も意地が悪い」
「は……」
「伯爵、先日俺はメルローズ嬢に少々強引に言い寄ってしまったのだ。あと数日しかこの国に居られないのでつい焦ってしまった」
ノアは最後の言葉を口にしたタイミングで視線をメルローズに向ける。目が合い、恥ずかしくなった彼女はうつむき膝の上でもじもじと両手を捏ね、そして少しだけ寂しさを覚えた。
(あと数日……もう殿下とお会いできるのはこれが最後なんだわ)
「伯爵、どうかメルローズ嬢を責めないで欲しい。俺が立場を利用して彼女を無理やり手に入れるのは本意ではない。だから『断りたければ断っていい』と言ってあったのだ」
「は? はい……」
「だが、俺は諦めの悪い男でな」
「え」
「メルローズ嬢さえ良ければ、今後も交流を続けたいと思っている」
「!」
彼女は驚いて顔を上げた。ノアと再び目が合う。やはり彼の瞳は優しくメルローズを見つめている。
「君はどうやら社交界で『傷物』という噂を広められているようだ。その言葉の意味を取り違えている者も多いのでは?」
「……はい」
メルローズは頷く。彼女にまともな縁談が来ないのは、おそらくダスティンとその友人たちによる噂のせいだ。『傷物令嬢』と呼ばれれば、事情をよく知らない人々は、メルローズが純潔を守れなかったふしだらな女だと誤解するだろう。












