序章(八)「カワイイねぇ」
「あっ。お、オド老師……!」
「──何でえ、てめえは。爺はすっこんでろ!」
女はぱっと表情を明るくして、男は怒声を張り上げる。老師は小さく首を横に振った。
「爺といえど、非道は捨て置けぬでな。ぬしこそさっさと代金を払って去ね」
「んだとぉ……この、死にぞこないが!」
つかんでいた女の髪を放り出し、握り込んだ右手を振りかぶったと同時に、オド老師は素早く術式を描き出していた。
障壁を作り出す魔術式だ。
魔力弾の修業の時には、流れ弾が家に飛ばないようにと、あらかじめあの障壁を周囲に張っていた。まだ威力のコントロールが利かないぼくの魔力弾はあちこちの木の幹に大穴を開けることもしばしばあったのだが──老師の魔力障壁を貫いたことは、一度もなかった。
老人の顔にぶつかる直前に、ギィンと耳に優しくない音を立てて、男の拳が止まった。
ぎゃあと情けない悲鳴を上げ、男は拳を押さえながら、尻もちをつく。鋼鉄のような硬さの壁に向かって、思いきりゲンコツを振り抜いたようなものだ。たまったものではないだろう。
「い、いでぇ……てめえ、魔術師かよ……!」
「いかにも。こんな片田舎におるとは夢にも思わぬじゃろうが──さて、これ以上暴れるならおとなしくさせる魔術はいくらでもあるぞ。どうするかのう」
男は泣きそうな顔で、両ひざをつき、おもむろに頭を下げる。
「わ、分かった。降参だ」
「よろしい。彼女に代金を支払うのを忘れぬようにな。──さて、早く部屋に入るとしましょうか。しかしここの鍵は、ずいぶん具合が悪うございますな……」
男に背を向けて、オド老師は再び鍵穴と格闘し始めた。ぼくは不安がぬぐえず、オド老師の手元と男の様子を交互に見ていた。
ひれ伏していた男は顔だけを上げて鬼の形相で老師をにらんでいたが、腹の辺りに手を差し入れると、不意に走り込んできた。
奴の振り上げた右手には、十五センチメートル弱ほどの長さのナイフが──
「危ない!」
ぼくは叫んだと同時に指の先に魔力を蓄え、何百回と繰り返してきた魔術式を眼前に走らせる。
銀色の光のビームが術式からまっすぐ、男の握りしめたナイフを目がけてほとばしった。
狙いどおりナイフが弾き飛ばされるか、砕け散る……はずだった。
「うっ……!」
ぼくは眉をしかめて、うめいた。
辺りは真っ赤な血しぶきにまみれ、男が絶叫する──ナイフは粉々になったが、男の右手の半分を巻き込んでしまったのだ。親指から中指までが根本から消え、残った二本の指も鮮血に染まっていた。
「あ、ああ! ご、ごめんなさい……ぼくは……」
「謝ることはございませぬぞ、ハイアート様。刃物まで出してきおったこやつの自業自得です。……ええい、この痴れ者め。大騒ぎするでない!」
床に転がって悶える男の右手首をひねり上げながら、オド老師は術式を組み上げる。治癒魔術の術式だ。かなり複雑な上に、いくつもの要素を同時に働かせるよう論理を組み上げなければならないため、ぼくにとってはまだ手に余る魔術だった。
魔力の輝きに包まれ、出血が止まり、傷口が瞬時に治癒されていく。その光景を、ぼくは怖れに身を震わせながら、憮然として眺めていた。
「ほれ、もう痛みはないじゃろう。手一つで済んでよかったのう、まだ命があるうちに立ち去るがよい」
「……あっ、こら! 金払っていけよ!」
憔悴しきった顔で立ち上がって、よろよろと歩き出した男に、女が怒声を浴びせる。男はチッと舌打ちして懐に手を入れ、握り込んだ銀貨を投げ捨てて足早に去っていった。
「十枚よりちょっと多いけど、迷惑料ってことでいいか。毎度あり」
床に散らばったコインを拾い集めてから、彼女はこちらに振り返ってにこりと笑った。
「オド老師、助けてくれてありがとう。迷惑をかけたね──そちらの子も、よくやってくれたよ。いい気味さ」
「あっ、いえぼくは……その、あんなケガをさせるつもりじゃ──」
うつむいて弱々しくつぶやくと、女性はふふっと失笑を漏らした。
「君、老師のお弟子さんなんだろう? カワイイねぇ、お礼に無料で一回イタしていくかい?」
「いっ、いえ! いらないですよ、お礼なんて!」
激しくかぶりを振ると、オド老師がホッホッと高笑いをした。
朝になって、ぼくとオド老師は乗合馬車に乗って村を離れた。
この先、王都に近づくにつれ魔術は忌避される傾向にあるので、老師の荷車は村の宿屋に置かせてもらい、通常の交通手段で王都に向かうのだ。
隣村まで行くという中年女性と乗り合わせたのだが、道中はしきりに炊いた芋をぼくたちに勧めてくるので、正直参ってしまった。俗に言う「おばちゃん」という人種は、どこの世界でも変わらないらしい。
女性は数時間かかって着いた村で降り、代わりに大きくふくらんだバックパックを背負っている、豊かな口髭をたくわえた多少身なりの良い男性が乗り込んできた。話によれば──というか、オド老師と話しているのを横で黙って聞いていただけだが──彼は名前をヘベニッフといい、マランの王都と地方都市を行き来する行商人で、王都の優れた宝飾品や工芸品を地方に売りに行き、そこで特産の農作物などを仕入れて王都に卸しに行くことで儲けているという。そこそこ資金がたまってきたので、近々大商いを計画していると、笑顔で語っていた。
日が沈み、馬車はルギオーという衛星都市へと到着した。ここからさらに馬車で一日行った先に目指すマラン王都があるという。明朝に再び馬車に乗るため、今夜はここで一泊する必要がある。
「もし、泊まる宿が決まっていないのでしたら、私の行きつけに行きませんか。安くて、夕食もかなりの量なんですよ」
ヘベニッフの提言に、渡りに船とばかりにぼくたちは乗っかった。馬車の乗降場から数十分歩いたが、着いた宿屋は今までに見てきた村のそれよりずっと立派な店構えをしていた。
「ううむ、ここはちぃと値が張るんじゃなかろうかのう?」
「いいえ! 目抜き通りから多少遠いせいで、この宿はルギオーでもほぼ最安値なんです。長いこと歩いてきた甲斐はありますよ」
両開きのドアをくぐり、酒場となっている一階を抜けて、ぼくたちは部屋の手配をしたのちに、酒場の一角に腰を落ち着けた。一泊食事つきの値段は昨日村に泊まった時のものとあまり変わらなかったので、オド老師は嬉しそうな顔であご髭をなでていた。
「お酒はたしなまれないんですか?」
「歳のせいか身体にこたえるようになってのう。数年前にやめたわ」
「まあ、健康が一番ですからね。お連れのお坊ちゃんは?」
細めた目を向けてきたヘベニッフに、ぼくは首を左右に振って応えた。
「ぼ、ぼくは、未成年ですから」
「ミセイネン? ……ああ、確かミムン・ガロデの一部で、二十五歳になるまで飲酒と喫煙を禁じた国があると聞きますね。そちらのご出身にしては、髪の色が黒いのは珍しいですが──ともかく、マランの法ではお酒に年齢制限はありませんので、大丈夫ですよ」
「い、いえ、遠慮しておきます」
再びかぶりを振ると、ヘベニッフは残念そうに眉をひそめた。
「そうですか、仕方ありませんね──お、料理が届きましたよ」
三人が囲むテーブルに、湯気の立つ食事が次々に並び出した。何かの穀物の粥と、炊いた芋と燻製された肉が載った大皿。かつてないボリュームの料理だった。
「ほう、これは見事」
「でしょう。さ、遠慮なくいただきましょう」
正直、芋は昼前のおばちゃんのおすそ分け攻撃で食傷ぎみだったが──仕方なく口にすると、驚いたことに香草らしきさわやかな風味があってとても食が進んだ。燻製肉もあの獣臭さがなくなって非常に食べやすい。量だけでなく味も洗練されていて、ぼくは一年ぶりに満足感をもって腹を満たした。
食事の間中、オド老師とヘベニッフはあまりものを口にせず、ずっと世間話に興じていた。マランの王政やアインツ領やガベ領の産業についてなど、ぼくには理解できない話題が多く、満腹も手伝ってぼくは何度も大きなあくびをした。
「ハイアート様。先に部屋に行って休まれてはいかがですかな」
「うーん、そうしようかな。おやすみなさい」
二人に頭を下げて、ふらふらと客室へ向かう。
部屋に入り、寝台にどっと横たわると、あっという間に睡魔がぼくを襲った。
「ハイアート様、起きてくださいませ」
激しく揺すられると同時に、オド老師の緊迫した声がして、ぼくは暗がりの中で跳ねるように上体を起こした。
「な、何?」
「市街地に大規模な盗賊団が侵入したらしく、衛士隊と衝突して街のそこかしこに戦火が上がっております。こちらに被害が出る前に避難いたします」