序章(七)「さぞ女が恋しゅうなっておるかと」
山の端が紅く焼ける頃、幌をつけた荷車がカラカラと音を立てて、山道をたどり始めた。
ぼくは馭者の席に座って、荷車の前に据えた魔術式にほどよい速度で走れるだけの魔力を注いでいる。ここ最近は、買い出しなどで荷車を動かすのはぼくの仕事になっていた。
オド老師の家のある山の麓近くまで峠を進み、そこから東の山の深い山林のただ中へと、けもの道のような小径を行く。徐々に登る坂道に変わっていくのが、前進に費やす魔力の大きさで如実に感じられた。
「老師。この森って、危険な動物とかいるんですか」
幌の中であぐらをかいているオド老師に声をかける。彼はゆるゆると振り返り、眠たそうな両の眼をぼんやりとこちらに向けた。
「イノシシならおりますかのう。危険といえば危険ですが、狩って途中の村の肉屋に卸せば路銀の足しになりますな」
「いやいや、出ないに越したことはないですって」
ぼくはぶるぶると首を振った。魔力弾は訓練に訓練を重ねて、ほぼ狙いどおりに当てられるようになったが、生きている相手に撃ったことは一度もない。
その上、まだ威力の加減が上手く利かないのだ。あわてて撃ったなら、きっと肉屋に卸せるような可食部分がまったく残らないだろう。
陽が高くなり、下生えに落ちる光の粒が多くなって、鬱蒼としていた森の木陰が次第に明るさを増してきた。姿は見えないが、鳥のさえずる声も増えてきたように感じる。
「老師。これから行くマランってどんな国なんですか」
空気がぬるんできて、少し眠気を覚えたぼくは再びオド老師に話しかけた。老師はふーむと小さくうなってから、おもむろに話し出した。
「精霊術師の国というのは前に話しましたな。マラン王家が代々卓越した精霊術の使い手であり、力のある精霊術師で国の中枢が占められている国でございます。王都には精霊術養成所があり、そこから優秀な術師が数多く輩出されております」
「徹底してますね」
「そうですな。その反面、どんな理由からかは拙も存じ上げませぬが、いささか魔術を疎む気質がございます。辺境ではさほど問題になりませぬが、王都に入ったら魔術は控えるよう、お気をつけください」
「ええっ? オド老師、そういうことは先に教えておいてよ!」
「あいすみませぬ。拙もたった今思い出しましたでな」
ドキッとして叫ぶぼくに、オド老師は自分の額をぴしゃりと叩きながら、うそぶくように言った。
やがて森は消え、草もまばらな荒れ野へと道は続いていた。側面に尾根を望み山の斜面に張りつく峠道を進むと、次第に下る坂道へと変わっていき、荷車の推進に使っていた魔術は逆に勢いがつかないように制動をかけるためのものになっていた。
「もうマラン国内に入りますぞ。国境際に村がありますので、本日はそこで一泊します」
夕闇が迫りつつある中、ぼくはオド老師の言葉にほっと安堵をついた。山の中で野宿なんて、ぞっとしない話だ。
道が平坦になる頃、周囲はまだら模様の草原からライ麦畑の広がる耕地へと変ぼうしていた。その向こう側には、ぽつぽつと小さな光が浮かぶ小高い土地をぐるりと囲う、二メートルぐらいの高さの柵が見える。
それに近づくと、道が続く先は鉄の鋲で補強された木の門扉で遮られているのが分かった。同時に、自身の身長よりずっと長い槍を携えた人の影が、門の脇に下げられたランタンの灯りにほのかに浮かび上がっているのが見えてくる。
「よーし、そこで止まれ。村人ではないな、旅の者か。おまえ一人か?」
門からまだ十メートルは離れている場所から門番らしき男に呼び止められ、ぼくは荷車にかけていた魔術を解いた。
「……いえ、二人です」
「む? おまえ、話し方に変ななまりがあるな。怪しいな、もう一人の者も出てきてもらおうか」
門番の声に不穏なとげとげしさが宿る。しかし幌の陰からオド老師が顔を出すと、門番はあっと驚きの感嘆を上げた。
「何だ、オド老師じゃないですか!」
「しばらくぶりじゃの。確か四、五年前にイナゴが大発生した時以来じゃったな」
「はい! あの時は村の一大危機をお救いくださり、誠に──すると、こちらの方は?」
十秒前とはえらく違う態度で、門番がぼくを指す。オド老師はにっこりと微笑んだ。
「拙の弟子で、そりゃもうどえらい魔術師のタマゴじゃ。北方の少数民族の出身で、ダーン・ガロデ語はまだ憶えたてなんじゃよ」
「そうでしたか! 怪しいなどと申してすみませんでした。あ、すぐ門を開けます!」
「待てい。まだ入村税を払うてないじゃろ」
きびすを返そうとする男を、老師が呼び止める。門番はぎょっとした表情を隠さずに振り返った。
「そんな! オド老師から税を取ったら、村長に叱られます!」
「何を言うか、同じ外来の者で課す課さぬがぶれるものを税とは言わぬわ。ほれっ」
振りかぶったオド老師の手から二枚の銀貨が宙を舞い、反射的に出た門番の手にキャッチされた。しばらく戸惑っていた門番は、結局手に銀貨を握り込んだまま村の門を開いた。
「──オド老師って、こちらでも尊敬されているんですね」
門を抜けて、黄昏時の街並みに荷車を進めながら、ぼくはオド老師に言った。彼は苦い顔をして、あご髭を落ち着かなげに何度もなでていた。
「まったく、何年も前に少々手伝っただけのことをいつまでもああ言われるのは心外ですな。当時に謝礼ももろうておりますし、それで貸し借りなしとしてくれればよいものを……」
「あれ? オド老師……もしかして照れてるんですか?」
「ハイアート様、年寄りをからかうものではございませぬぞ」
さらに渋い表情を見せる老師に、ぼくは声を上げて笑った。
ぼくとオド老師は宿屋の建物から、離れの客室へと向かっていた。
その道中にはドレスを着た若い女性が数人立っていて、一様にこちらをちらっと見るだけで興味なさげに視線を逸らしていく。
たぶん、いわゆる夜の商売の人たちなのだ。老人と子供では、客にならないということなのだろう。
「あの、オド老師。こんなことを訊いては失礼かもしれないですが……この辺ってこんなに多いんですか? その、しょ、娼婦って」
「ここはあまり多い方ではないかと存じますが……あなた様の世界──日本ではもっと少ないのですかな?」
意表を突かれたといった顔で逆に聞き返され、ぼくは表情を曇らせてかぶりを振った。
「いるところにはいると思うけど……少なくとも、ぼくの住んでいた街では見ませんでした。日本では売春は法で禁止されてますから」
「何と。なぜ禁止されているのでしょうか」
「さあ、理由までは知りませんが……たぶん、不特定多数の男性と関係を持つのはいけないことで、女性がかわいそう、という考え方からかな」
「ますます理解しがたいですな。なぜ娼婦がかわいそうに思われるのか……いやはや日本とは、価値観に大きな隔たりがあるのですな」
ぼくはしかめ面のまま、黙ってうなずいた。ここでは日本人的な常識の方が異端なのだ。そういう認識にも、慣れていかなきゃいけない──
「あっ、ハイアート様。申し訳ありませんが路銀に乏しゅうございますゆえ、女を買う余裕はありませぬぞ」
「いらないよ!」
彼女らを買うかどうか悩んでるように見えたのか、オド老師の妙に真剣な物言いにぼくはさっきよりも激しくかぶりを振って即答した。
「そうですか、永らく爺と二人暮らしですから、さぞ女が恋しゅうなっておるかと……さて、着きましたぞ」
立ち並ぶドアの中の一つの前で足を止め、オド老師が鍵を取り出して錠前に差し込んでガチャガチャとこじる様を、恋しいも何も生まれてこの方女子とつき合ったことすらないよ、というツッコミをぐっと飲み込みつつじっと見つめていた。
突然。
左手の二つ先のドアが勢いよく開いて、そこから放り出されるように人の影が倒れ込んできた。ゆるくウェーブのかかった栗色の長髪とドレスのくすんだ赤色が目に入って、すぐに女性だと分かった。
「……ってえ! 何しやかんだ、てめえ!」
女の切る啖呵の威勢に、ぼくの方がビクッと身を震わせてしまった。険悪な雰囲気の中、大きく開いた扉の奥からぬっと、目つきの悪い男が怒りも露わに姿を現した。
「うるせえ。さっさと行かねえと、もっと痛え目に合わすぞ、クソ女」
「ふざけんな! あんたが満足しようがしまいが、仕事した分は払えっつってんだよ!」
野太い声で脅されてもなお勢いの変わらない彼女に、男の表情がより険しくなり──素早く伸びた手が、女の長い髪を乱暴につかみ上げた。
「ああ……っ……!」
「生意気な口を聞きやがって……二度と商売できねえ顔にしてやる」
女性が危ない目に遭っているのは分かっていても、身がすくんで声ひとつ出せない。
しかし──
「これ、やめぬか。大の男がみっともない」