序章(六)「今日は試験をすると言ってたけど」
玄関のドアをくぐって外に出ると、すぐ先で待っていたオド老師が嬉しそうな微笑を浮かべた。
「素晴らしい。よく似合っておりますぞ、ハイアート様」
老人のおだての上手さに、ぼくは頭の後ろをかきながらはにかんだ。
ぼくの首から下は、老師が若い頃に羽織っていたという、黒いコート姿だった。布地の大半は毛織で、詰襟と肩の部分が頑丈な皮革でできている。このコートは一般に「魔術師の外衣」と呼ばれていて、以前山麓の村で会ったデアムゴが着ていたものとよく似ていた。
「ありがとう。でも、ちゃんとした魔術を使ったためしもないのに、格好だけ一人前の魔術師みたいにするのも、何だか恥ずかしいな」
魔術の修業を始めてから、五カ月が過ぎていた。ダーン・ガロデ語は日常会話にほとんど支障がなくなり、魔力のコントロールもある程度は行えるようになっていた。
「いえいえ、これほどの短期間でここまでできるとは大したものです。この急成長ぶりであれば一人前どころか、あっという間に一流の魔術師と呼ばれるようになりましょう」
「それは言い過ぎだよ、老師。──さて、今日は試験をすると言ってたけど……」
「うむ。魔力の制御にも十分に慣れてきたので、一度ハイアート様の魔力制御力がいかほどかを確認したいと思います。『魔力弾』の術式は憶えてきましたかな」
オド老師が髭をなでつけながら訊ね、ぼくは自信をもってうなずいた。
「よろしゅうございます。試験は簡単で、魔力を限界まで高めて、魔力弾を撃つ。その出力具合で制御力を計りたく存じます」
制御力が高ければ、それだけ強力で複雑な魔術を扱える。どのくらい高度な魔術が使えるかを計るのはとても重要なことだ。
「分かりました。では……参ります」
袖口の術式に魔力を通し、周囲から魔素を集め始めた。同時に集まってきた魔素を、そのまま魔力へと変換していく。
魔力量を高めることに集中していて、どのくらいの間魔力を吸い続けていたのかよく分からないが、傍らでじっと見ている「試験官」の表情は時間経過と共に笑顔から驚愕へ、それから興奮したように顔を紅潮させていった。
やがて、魔力の吸収に苦しさを覚えてきた。呼吸困難とか疲労とかではなく──魔力を得るという行為が次第にしづらくなってきたのだ。
これが、限界に来ているということなのだろうか。
眉間にしわを寄せながら横目でオド老師を見ると、こちらも険しい表情で、顔色を青白くさせている。
もうダメだ。魔力弾を撃とう。
ぼくが指先に魔力の光をほとばしらせて空中に術式を描き出すと、老師がはっとして目を瞬かせた。
「ハイアート様、いけません! 魔力弾を撃つのをおやめください──」
オド老師が叫んだが、遅かった。
完成した術式がカアッと強烈な輝きを放ち、純粋に物理的な力を持つ魔力そのものが直線的に放出される。
一瞬で遠くに霞む山の中腹へと光の帯が延びていくと、山肌でパッと火花のように弾けてかき消え……その山の表面にきれいな円形の青い何かが出来上がっていた。
……いや、そんなはずはない。ただの見間違いだ。
アレがまさか、あの巨大な山体のど真ん中をくり抜いて向こう側の青空が見えているなんてことが、あるわけがない。
「お、オド老師……すみません、あの──」
「……やれやれ、肝をつぶしましたぞ。しかしあれほどの魔力を、まともに魔力弾として制御できるとは……今のが、限界でしたかな」
ほーっと深いため息をつきながら老師が訊いてきて、ぼくは不安げにうなずいた。
「は、はい。だんだん魔素を魔力に換えることがつらくなってきて……」
「魔素を? 体内の魔力が制御しきれなくなった感覚は、なかったのですかな?」
「? そうですね、普通だったと思います。術式も問題なく働き──あ、あの、ぼくが何かまずいことをしましたか?」
「……そうではありません、ハイアート様」
オド老師はゆるゆるとかぶりを振り、驚きを隠せないといった表情で、嘆息交じりに言った。
「あなた様が感じた『限界』は、むしろ魔素の量の方でございます。ご覧ください! 今やこの周辺から、魔素の気配がきれいさっぱり消えておりまする」
そう言われて、はじめて気がついた。いつでもそこら中に漂っていた黒くもやらかな影がなく、視界の届く範囲のすべてが澄み渡っている。
「……少なくとも、数百ネリ先まで魔素が空っぽになっておるでしょう。それほどの魔力を有してなお限度の見えぬ底なしの制御力とは……」
オド老師は、神妙な面持ちで、ひざまずいた。
ぼくを召喚した時と同じように、頭を垂れ、胸の前に手を交差させて──
「もはや我が予言を疑う余地はみじんもありませぬ。あなた様はこの世で最強の魔術師──そして救世の英雄に間違いありませぬ」
「ちょっと、やめてよ老師。ぼくはまだ習いたてのひよっ子なんだから──教えてもらわなきゃいけないことが、まだたくさんあるんです」
眉をハの字にして諸手を振ると、オド老師は顔を上げて、にこりと笑った。
「そうでございますな。もちろん、拙の持つすべてを授けましょうぞ──ハイアート様は、この世のすべての魔術を使いこなせる力を持つお方ですからのう……」
「オド老師。ちょっとよろしいですか」
ぼくの呼びかけに、オド老師は眼鏡を外しながら書物から顔を上げた。ぼくは開いた本をテーブルに置きながら、彼の対面に座った。
「何か、分からぬ点がございましたかな」
「分からないことというか……この本は、魔術による精霊術の操作について書かれているようなんですが」
「左様でございますな。魔術は森羅万象を操作する技術でありますから、精霊術とて例外ではないですのう」
何が疑問なのかと言いたげな目を向けつつ、老師は長い髭をなでつけながら言った。
「精霊術を魔術で操作する、という意味がよく分からない……というか、ぼくは精霊術についてまだよく知らないのだと思いまして。老師は以前に、ぼくにも精霊術の適性があるかもしれないとおっしゃっていたじゃないですか」
「おお、おお、そうでしたな。ハイアート様があまりに早く魔術に習熟されるので、教える方も楽しくてつい失念しておりました。では、あなた様の精霊術の適性を計ることにしましょう」
ぼくは口の両端を持ち上げた。火精霊術でたきぎに火をつけるオド老師を見て以来、ぼくにも自由に炎や風を操れたならと、ずっと憧れてたのだ。
「精霊染性は魔素と違い、本人のその時々の感情などで精霊力に振り幅が出ますので、実際に使ってその大きさを計ろうとすれば正確さに欠けます。ゲイバム王国には拙の作成した、最も正確に精霊染性を計測できる魔器がございますが……遠いので、マランの方に行くことにしましょう」
「マラン?」
「はい。東の山を越えた先にありまして、『精霊王国』とも呼ばれる精霊術師の国でございます。聞くところには精霊術師の養成所に染性ごとの組分けがあるそうなので、おそらくそこにも計測魔器があるはずです」
山麓の村におつかいに行くのだって、丸一日かかる大仕事なのに。
東側にある、あの険しそうな山を越えていくとなったら、もはや旅に出るレベルだ。
「今すぐというわけではありませぬ。今日のうちに出かける支度を整えて、明朝から出発いたしましょう」
軽い気持ちで訊いたことがかなり大ごとになってしまって目を丸くしていると、オド老師はふっと失笑を漏らした。