第三章(十八)「肝心要のタコが無い」
邸宅の厨房に足を踏み入れると、もわっとした熱気に包まれた。
学校の教室ぐらいはあろうかという広々としたキッチンを、前かけ姿の男たちがあわただしく動き回っている。
彼らにぶつからないように合間をぬって奥へと進むと、ダビフ卿に「貸してもらった」料理人が、かまどや調理台の揃った一角で足を止めた。
「ではハイアート殿、よろしくお願いします。まず何からご用意いたしましょうか」
さて、まずはたこ焼きの材料だが……問題はダーン・ダイマに存在するものだけで揃えなければならない、ということだ。
まず、肝心要のタコが無い。もしあったとしても、少なくともブンゴンが知らないぐらいには食材として一般的ではない。加えてソースも紅生姜もカツオ節も青のり粉も無い。
この辺りは、何らかの代替品で乗り切るしかないだろう。
「そうだね、とりあえずは小麦粉と鶏卵と……タラはある?」
「はい、ございます」
「じゃあそれと、キャベツとネギ。これは多めにみじん切りにしたものを。あとは……ここにある全部の調味料や風味づけに使えそうなものを、少量ずつ持ってきてほしい」
「かしこまりました」
料理人は一礼して、厨房を後にしていった。
「よし、彼が戻る前に、調理器具を用意しよう」
「器具? ここにある鍋や焼き器だけじゃダメなの?」
かまどの上に吊られたフライパンや片手鍋を眺めていたズエンカが、怪訝な顔をして訊いた。確かにこの厨房にある、鉄や陶器でできた大小様々な種類の器具の数は、他に類を見ないが──
「たこ焼きを焼くにはね、特別な形の道具が必要になるんだよ。だから、今から作る」
ぼくは調理台の前に立ち、磨き上げられて真っ平の石でできた天板に向けて、簡単な魔術式を描いた。
そこに土精霊力を込めて、石板の表面に、直径四センチメートルの半球状のくぼみを作る。
続けて左から右へ、数ミリの間隔で同様のくぼみをいくつも空けていった。
「わ。こんなに穴ぼこだらけにしちゃって、怒られるよ?」
「大丈夫、作り終わったらちゃんと直すから。──とりあえず、こんなもんでいいか」
四列八個、合計三十二個のくぼみ。即席のたこ焼き器の完成だ。
それからほどなくして、料理人が二人がかりで脇の作業台へと食材を並べ始めた。皮袋に入った小麦粉、ボウルいっぱいの茶褐色の殻をした卵に、大ぶりのタラが数尾、皿に盛られたみじん切りのキャベツとネギ。
「うん。じゃあすまないけど、このタラの身を切り出して、みじん切りにしてくれるかな。残った頭や中骨からは、出汁を作ってほしい」
「かしこまりました」
料理人はタラを一尾手に取り、隣の調理台へと向かう。その時、外衣の袖が引っ張られる感覚がして、ぼくはズエンカの方に向き直った。
「ねえねえ。あたしにも何かできることある?」
「そうだなー……卵を割って、黄身と白身に分ける作業をしてもらおうかな。できる?」
「やったことない。でも、やってみたい」
ぼくはうなずいて、作業台に二つの鉢を据えた。卵を一つ割って、中身を右の鉢に落とす。
それから食器棚を漁って、粥やスープに使うような木のさじを探り当てると、それをそっと卵黄の下に差し込んですくい上げた。卵白が粘りを見せるも、最後には黄身だけをさじの上に残してつるんとすべり落ちる。
「おおー」
「思ったより簡単でしょ。これを、あと三個分くらいやってくれるかな。残りは黄身も白身も全部こっち側に入れちゃっていいから」
卵黄を左の鉢に投じて、今すぐ始めたくて待ちきれないと言わんばかりに頬を赤らめたズエンカに笑顔を向ける。彼女は早速作業台に取りついて、卵の殻をぎこちない手つきでパカッと割った。
「あれっ。殻が少し入っちゃったかも」
「後でまとめて取るから、気にしないで。さ、黄身をすくってみよう」
緊張にやや表情を固くして、ズエンカはさじを手にする。それから慎重すぎるぐらいにさじの先で卵黄の縁をなぞり──
「……できた!」
まるでトロフィーのようにさじに乗った卵黄を掲げて、満面の笑みを浮かべる。ぼくはパチパチと小さく拍手を贈った。
「よくできました。それじゃ、後は頼んだよ」
ズエンカが再び卵に手を伸ばすのを見届けてから、魚を捌いている隣の調理台をのぞきに行く。すでに三匹目のタラが三枚に下されて、アラが鍋を満たしつつあった。
「あ、ハイアート殿。調味料などはそちらに揃えてございます」
ナイフを動かす手を休めず、料理人が目線だけでそれを指し示す。少し離れた別の作業テーブルの上にいくつかの小皿が並んでいた。
塩、酢、刻んだ香草の類……その中で一際異彩を放つ、黒々とした物体。
指先に取ってみると、純粋な黒というわけではなく、濃厚な緑色をした粘りのあるものだと分かる。
「これは……海苔か!」
「ノリ? それは海苔と言いまして、オンデ・ボーとその南の地域の海岸の岩場でのみ採れる海藻で、我が国の特産品です。汁物に入れたり、魚の焼き物に乗せて香りづけにしたり。美味しいですよ!」
「これは使えそうだ。あとは──」
見回した中でもう一つ気になったのが、茶褐色の液体。少量を指先につけて味を見ると、強烈な塩味があり、その中に甘味と旨味。そして何より、納豆か何かに似たような、人類に非友好的な臭みが鼻を刺激する。
どこかで味わった記憶がある。たぶんアレだ、昔にタイ料理店で食べた、カオマンガイのかけダレの味。
確か、ナンプラーとか言ったか──いわゆる魚醤ってやつだろう。
「ああ、魚醤は他の地方から来る方には匂いがお気に召さないこともありますね。つぶしたニンニクや生姜を合わせると、親しみやすい風味になります」
顔をしかめたぼくを見て察したのか、料理人が苦笑いして言った。醤油は欲しかったが……旨くなるかまずくなるか、これは賭けだな。
「うん……これも使おう。十分な量を用意して、すり下ろした生姜を漬けておいてほしい」
「かしこまりました」
出汁の臭み取りに使うであろう玉ねぎをスライスしている料理人に言づけて、ぼくは脇の鉢を手にした。中には細かく刻まれたタラの身が盛られている。
「ハイアート殿、そちらはどうされるんですか?」
「すりつぶして、練ってから蒸すよ。要はカマボコだ──さて、ズエンカの方はどうなったかな」
タラの身の鉢と塩を手にして、ズエンカの背後から作業台の様子をのぞく。彼女は、さじで卵黄をすくう作業を続けていた──が、その鉢にはすでに十個以上の卵黄がたゆたっていた。
「おいおい、ズエンカ。三個ぐらいでいいって言ったじゃないか」
「え? あ、ごめん。何か楽しくなってきちゃって」
「いや、別に謝るほどのことじゃないけどね。じゃ、ちょっと白身をもらうよ」
かぶりを振りながら、卵白の鉢を確認する。透明な粘液の中に、小さく欠けた殻が混じっているのが見て取れた。
さっと術式を描くと、一瞬で殻の破片だけがぼくの手に集まる。
「あらま、相変わらず便利だこと。……ねえハイアート、魔術でそんなことができるんなら、そもそも黄身だけを抜き出すこともできたんじゃないの?」
「あ」
確かにそのとおりだ。
つくづく、魔術は技術じゃなくてアイデアだと感じずにはいられない。ぼくもまだまだ修業が足りないな。
「まあいいけど、面白かったし。それで、あたしは次に何をしたらいい?」
「あ、じゃあ、このタラの身を練る仕事を任せよう。えっと、すりこぎはあるかな?」
「はい。そちらの調理台の脇に」
タラのみじん切りの入った器に塩と卵白を加えつつ、背後の料理人に訊ねる。彼はアラをバケツの水で洗う作業から目を離さず答えた。
そこから長さ三十センチメートル弱の丸い木の棒を手に取り、その先でトントンと鉢の中身を形がなくなるまで叩く。
「ズエンカ、用意できたよ。これをすりこぎで、粘りが出るまでグリグリやって。結構力が要るんで、疲れたら代わるから言ってね」
「大丈夫、任せて」
ズエンカが手渡したすりこぎで、フンフンと気合いを込めながら鉢の底をこすり始めたその時、ぼくの右脇でごとりと何かが置かれる音がした。
ボウルにいっぱいの海苔だ。
「来た来た。さて、海苔をすくのに使う木枠や簀はなさそうだし……まあ適当でいいかな」
生の海苔をまな板の上にあけて、ナイフで叩くようにして細かく刻み、ドロドロしたペースト状に変える。それからまな板に薄く、できるだけ均一になるように塗り広げて──水精霊術。
フワッと白い水蒸気が立ち上って、海苔はパリパリに乾いた紙のように……はならなかった。表面はデコボコで、あちこち隙間ができている。
ま、おにぎりや巻き寿司に使うものではないから、たぶん問題ない。
「え、何ですかそれは? 海苔をそのように加工するのは、初めて見ます」
と、ぼくの肩越しに、ぼくの手元にある黒い板状のものをのぞき込んだ料理人が目を丸くした。
「そう? ぼくの国じゃ、海苔といえばこれが普通だよ。本当は紙をすく道具と同じものを使って、もっときれいな形にするんだけどね……で、これからこれを直火で焼いて──」
チラッとかまどを見ると、そこにはアラを煮出している深鍋が鎮座している。ぼくは小さなため息をひとつついて、おもむろに魔力を込めた図形を引き始めた。




