序章(五)「魔力を帯びた声を発せられたのです」
厨房の方から、オド老師がちらりと顔をのぞかせた。
「ハイアート様。先に朝げを済ませてしまいましょう」
「あ、ハイ。オド老師──朝食は、今日、何ですか?」
ぼくは本から顔を上げて、たどたどしく答えた。
翻訳の風精霊術をかけなくなってからダーン・ダイマの暦で丸一年、地球時間で言うと九カ月以上が経っていた。精霊術に頼りきりになっているとダーン・ダイマの言葉をまったく憶えられないので、不便を承知でぼくがオド老師に協力を頼んだのだ。
ありがたいとことに、オド老師も小さい子どもに一から会話を教えるように接してくれた。なかなか言葉が伝わらない時も、イライラすることなく気長につき合ってくれた。
異世界「ダーン・ダイマ」には、南西部の広範な国々で使われるダーン・ガロデ語と、北東部の比較的小さな地域で使われるミムン・ガロデ語の二種類が主要な言語となっているらしい。彼が話し、教えてくれている言語はダーン・ガロデ語の方だ。この言語は文法的に日本語に近くて話しやすいが、日本語でいうヤ行とワ行に相当する発音がない。だからみんな、ぼくの「白河速人」という名前を聞き取れず「シラカー・ハイアート」と呼んでいたわけだ。
文字もある程度学び、本も少しずつ読めるようになってきている。とはいえまだ読めない文字や単語を書き出して、あとでオド老師にまとめて聞くという作業をしながらなので、手始めに借りた「ゲイバム王国史」という数百ページはありそうな本がまだ三六ページしか進んでいない。
「昨日と同じですぞ。黒パンと豚の腸詰めです」
「そっか。好きだから、嬉しい。あれは、味が、いいから」
「『味がいい』ですか。それはよろしゅうございました。味が優れているものを表すには、『おいしい』という言葉もございますよ」
「『おいしい』か、分かった。腸詰めはおいしい」
「上出来です。さて、食事にいたしましょう」
テーブルについて、オド老師の用意してくれた朝食を早速食べ始める。固いパンも、血の臭いがするソーセージも、もう慣れてしまった。
「時にハイアート様、最近お身体の調子はいかがですかな。気分がすぐれなかったりなどはいたしませぬか」
唐突にオド老師が訊いてきて、ぼくは意図がつかめないまま首を縦に振った。
「そうですか。いや、実はですな……頃合かと思いまして、三日前の早朝、あなた様がお休みのうちに『魔素封じ』の術をこっそり解いておいたのです」
「ええっ?」
ぼくはドキっとして素っ頓狂な叫びを上げた。体内に入った魔素を魔力に換える魔術がないまま三日間も過ごしていたなんて、まったく気づかなかった。
つまり、ぼくはすでに到達していたのだ。
呼吸をするように、無意識に自分の身体にある魔素を魔力へと変換できるほどの習熟レベルに。魔術の助けを借りることなく、このダーン・ダイマで生活していけるようになったということなのだ。
「よかったですな。これでもう、魔素の毒を恐れることもなくなりましたのう」
「……はい、あの、オド老師。あの、今までありがとう「ございます」」
あれ?
今のは、何だろう。
ぼくの口から出た言葉の最後の辺りが、エコーがかかったようにダブって聞こえたような気がした。声を発したと同時に、まったく同じ言葉を録音してその声とぴったり合わせて再生したような、不思議な響き方だった。
「──オド老師、聞こえた、ですか、今の──」
ぼくは目の前の老人に訊ねようとして、その時初めて、彼が驚いたように目をかっと見開いてぼくの顔をじっと見つめていることに気づいた。
「……なんと、これは──なんとしたことじゃ」
オド老師が震えた声を上げるので、ぼくはたちまち不安に襲われた。何かまた、ぼくの身に悪いことが起きたのではないかと──
「あ、あの、ぼくに──何か起こってる、の、ですか?」
「とても大変なことです。ハイアート様は、今──魔力を帯びた声を発せられたのです」
「声が、魔力に? それが、どういう……」
老師は真剣なまなざしをぼくに据えたまま、身を乗り出して、言った。
「理由は分かりかねますが──染性のないあなた様に、なぜか魔力を制御できる力がある……ということでございます」
ぼくののどを固唾が通り、ぐびりと鳴った。
「……で、では──」
「制御力がいかほどのものかにもよりますが──すぐにでも始めましょう、魔術の修業を」
オド老師は嬉しそうに微笑んだ。
朝食を片づけたあとのテーブルに、オド老師は陶製のマグを、コトリと音を立てて置いた。
「……早く魔術を使ってみたいと思し召しかもしれませぬが、まずは魔術とは何かということから始めるべきかと存じます。よろしいですかな」
「同意します、老師」
思わせぶりに置かれたマグから目を離さないようにして、ぼくはうなずいた。
「では、ご説明しますぞ。まず魔術とは、魔力を源として、この世の森羅万象を『操作する』力を得る技術でございます。具体的には、『何を』『どのように』操作するかを明確化して、それに魔力を込めることで実現させるのです……」
今ひとつ理解できず首を傾げるぼくに、オド老師は白髭をなでながら目を細めた。
「実際にやってみせましょう。ここにあります盃を、右へ少々動かす魔術をかけますぞ──『魔力に命ず、机上の、盃を、盃の、中腹の高さで、支え、机より、一ゾネリ、高く、上げて、拙の、右方向、直線で、五ゾネリ、動かし、一ゾネリ、低く、下げて、コップの底を、机上に、着地させよ、以上、開始せよ』……」
オド老師は魔術をかける時の、あの妙な図形を描かずに、ただ言葉を発した。
言い終わった瞬間、マグが音もなくスッと一ゾネリ──約三センチメートルの高さに浮き上がった。
そこから十五センチメートルばかり、ぼくから見て左側にわずかに揺れながら動き、最後に再びテーブルの上へと置かれた。
「……とまぁ、このような具合です。魔術を分かりやすく理解するために、拙は今『言語論理』という方法で魔術を行使しました。魔術に必要な理を言葉で言い表し、その音韻に魔力をまとわせることで魔術を成すのです」
「距離とか、高さとか、かなり、その……細かい」
「そうですな。しかしそうでないと、加減が効かぬのです。例えば高さを正確に定めぬと、おそらくは盃が天井まで飛び上がって粉々になります」
ぼくが顔をしかめると、オド老師は苦笑いで答えた。
魔術を行使するというのは、くどいほどに理屈っぽく、ことを考える必要があるようだ──自慢できることではないが、たぶん、そういう点ではぼくに向いている。
「次に、『記述論理』による魔術をお見せしましょう。今度はこの盃を左に動かしますぞ」
そう言って、オド老師は手元にあったノートを一ページ破り取り、羽ペンで文字を走らせた。ところどころ読めない単語はあるけれど、たぶん先ほどの言語論理を左右逆にしただけの文句が書いてあるのだろう。
ダーン・ガロデ語による長ったらしい文章を書き終えたあと、老師は指先で文字の上をなでつけた。すると黒インキで書かれた文字が、魔力で銀色に輝きだす。同時にマグが浮いて、まったく同じように右へと移動した。
「このように、命令する形で言葉をつづり、魔力を付与することでその言葉どおりの現象を起こすのが魔術なのでございます。ハイアート様、ここまでご理解いただけましたかな」
「……たぶん。だけど……老師が、使っていた魔術は、もっと……図形? みたいだった?」
ぼくが訊くと、オド老師はにこりとして大きくうなずいた。
「左様でございますな。現在の魔術は、記述論理をさらに発展させた『記述魔術式』となっております。論理の言い回しとしてよく用いられる言葉を、早く簡潔に記述できるよう、簡素な記号に置き換えていったのです。その記号の位置や組み合わせ方で先ほどの論理を表現したものを魔術式、あるいは略して術式と呼びます」
オド老師は指先を魔力で光らせると、その光の軌跡で円を描き、その中に丸やいくつかの直線で構成された奇怪な図を表した。
最後に宙に浮かんだ図形が銀色にきらめくと、テーブル上のマグが、また右から左へと動く。言葉を使うよりずっと早く、魔術が働いた。
「……さて、ハイアート様が魔術を修めるためには、まず魔力の制御を習得しなければなりませぬな。それと、魔術を正確に発動させるためにはより正しく言葉を学ぶ必要がございます」
「そうか、確かに。言葉を憶える、としたことが、そのまま、修業になる、魔術とは、思わなかったけど、都合がよかった」
「そうですな。言葉についてはゆっくり学んでいただいてもよいと思っておりましたが、もっと精力的に取り組んでいただかなくては。がんばりましょうぞ、ハイアート様」
ぼくは困惑げな表情を浮かべて、苦く笑んだ。