序章(四)「魔力へと……換える」
自走する荷車はさらに村の奥へと入っていき、両開きの扉のついた大きめの店の前で止まった。軒先に吊るされた看板に盃の絵が描かれているところを見ると、酒場のようだった。
オドは足早にその中へと躍り込んでいき、ぼくはあわててその後ろを小走りでついていく。店主らしき初老の男の立つカウンターへと、オドはまっすぐ突き進んでいった。
「おお、老師。最近見なかったから、噂どおり本当に酒をやめたのかと思ったよ。何か呑んでいくのか、それとも酒樽をご所望かい」
「酒をやめたのは本当じゃ。そうじゃなくて、ここにゲイバムからの使いが泊まっておるじゃろう。どこにおる?」
店主が視線を脇に逸らし、ぼくとオドはその先を目で追った。視線の向かうテーブルには、黒い詰襟のコートを着た青年が、陶器のジョッキをあおっている姿があった。
「デアムゴ、ぬしが来ておったのか。まだ日も明るいうちから酒とは、悠々自適な旅じゃのう」
青年に歩み寄り、オドは薄笑いを浮かべて言った。老人に気づいたデアムゴは、ジョッキを置くのも忘れて、ビッと背筋を伸ばして立ち上がった。
「こ、これは老師殿! ごごご、ごきげんうるわしゅう……!」
「堅苦しいあいさつは抜きじゃ。ゲイバムへの定期連絡を忘れておった拙のせいで遠路はるばるご足労いただいて、申し訳なかったのう」
「とんでもないです! ご無事で何よりでした!」
ガバッと、デアムゴは腰を九十度に折って深々と頭を下げる。手にしていたジョッキから酒が勢いよくこぼれて、テーブルの上に広がった。
「ひゃあ! 申し訳ありません、老師殿に大変なそそうを──」
「相変わらずあわてん坊じゃのう。とにかく、拙はこのとおりピンピンしておるでな、さっさと国へ戻って王に報告するがよい」
「はっ! 承知いたしました」
今度はちゃんとジョッキを置いて、デアムゴは再び頭を深く垂れた。オドはふうと小さくため息をついて、ぼくに向き直った。
「さて、拙は早急に買い物を終わらせてきますのでハイアート様はこちらで少々お待ちくだされ。お酒はたしなまれますかな」
「えっ。ぼくは未成年なんで、お酒は……」
「ふむ。ミセイネンというのはよく分かりませぬが、お酒を呑まれないのであれば──ご主人! この方に茶を入れてくれぬか。お代はこの者が払うからの」
オドはデアムゴの鼻先を指差し、酒場の店主がうなずくと、にこりと笑って店の外へと早歩きで出ていってしまった。
オドの消えた店の出口を呆然と見ていると、カウンターから出てきた店主がテーブルの上を布で軽くぬぐったあと、湯気の立つマグをそこに置いていった。
「……どうした、君? 座りなよ」
デアムゴは鈍く光る銀色のコインをテーブルに置き、それを拾い上げた店主が立ち去るのを待って、ぼくに声をかけた。ぼくがおずおずと椅子に腰をかけると、彼も席について、テーブルを挟んで向かい合う格好になった。
「──君、名前は──ハイアート、でいいのかな」
「え、ええと、速人です。白河速人」
「シラカー・ハイアート? 変わった名前だね。それで──オド老師とは、一体?」
「そ、その──弟子、のようなものです」
興味深げに訊ねてくるデアムゴに多少戸惑い、それからオドが肉屋の主人に言ったように答えると、彼は肉屋の主人と同様の驚きを見せた。
「何だって! 君は、老師から直々に魔術を学んでいるというのか。大したもんだ!」
「あ、あの……オド老師、って、そんなにすごい人なんですか」
「ええ、君は知らないで老師のお弟子さんをやっているのか? オド老師はゲイバム王国の元宮廷魔術師長で、精霊術師隊と魔術師隊を統べてきた王国一の魔術師なんだよ?」
ゲイバムで禄を食んでいたとは言っていたが、何だかすごく偉い人だったらしい。
「まぁ、自分が魔術師隊に入ったのは老師が隠居した後なんで、自分もどれほどすごいかは人づてにしか知らないんだけど……しかし、そうなると君もさぞかし、かなりの実力の持ち主なのだろうね」
「あ、いや……実はまだ全然で……魔素を、魔力に換えることもできてないんです」
「そ、そうなんだ……いや! オド老師は先を見通す力が特に高いと王が評していたという話だったし、きっと君にも実力の片鱗を感じ取ったとか、そういうことなんだろう」
デアムゴは一瞬怪訝な表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻った。
「……自分も才能のある方ではなかったから、そこでつまづくのはよく分かるよ。オド老師は天才だったから、人に教えるのはあまり上手くないんだと思う……」
デアムゴが、テーブルの上に平手を差し出した。彼が着ているコートの袖口にある幾何学模様のような図形に指で触れ、それを銀色に光らせると、魔素が急激に渦を巻いて集まってくる。
「──いいかい、ハイアート。魔素は手などで触れて魔力に換えていくのだけど、この時表面で触れようとするのではなく、手や指の『芯』で触れることを意識するんだ」
「……し、『芯』、ですか……?」
「うん。そして、魔素は魔力に『換わる』ことを期待するものではなく、魔素を自分の意志、自分の力で魔力に『換える』と意識することが何より大事なんだ」
デアムゴの手の中で、魔素が光の粒に変わって、それからぱっと散り散りになって消えていく。ぼくが顔を上げると、デアムゴはニッと頬を持ち上げて微笑んだ。
「自分から助言できるのはこれぐらいだ。あとは、この感覚をつかめるようになるまで何度でもやってみるしかない。がんばって、オド老師の期待に応えられる立派な魔術師になってほしい」
──魔力を得られても魔術は使えない、などと言える雰囲気ではなく、ぼくはただ無言で、ゆっくりとうなずいた。
峠道を登っていく荷車の荷台に、ぼくは大量の肉や穀物に囲まれて座っていた。
空は半分ほど紅く染まってきているけど、太陽が沈みきる前には、オドの家に着きそうだ。
確かに、今までぼくは魔素に「換われ」と念じていた──手の中でゆらゆら揺れる霧のような魔素を見つめながら、デアムゴの言葉を心の中で反すうしていた。
魔素は、自分で勝手に魔力には変わらないんだ。
手の「芯」で魔素に触れ、あのキラキラ輝いてチクチクするエネルギーへと、ぼくが「換える」。
ふーっと息を深くついて、魔素へと手のひらを寄せた。
触れるのは、皮膚の奥、筋肉の奥、骨の奥にある、その中心──
「!」
今まで感じたことのない感覚が、手から波打つように、ぼくの脳髄を直撃した。
魔素とぼくの意識が、神経で直結したような気分だ。
この魔素が、手や足みたいに身体の一部としてコントロールできそうな、不思議な感覚──
できる気がする。
この黒いもやを、銀色の光を放つ、魔力へと……換える。
頭の中にそう言葉を思い浮かべた、というか思い浮かべる寸前だった。
手の中の魔素の周辺に、いくつもの小さな小さな光の球が生まれて、火の粉のようにふわりと空気中へ漂い出してすぐ消えていった。
「……お、おおお、オド──オド老師! 魔力が!」
出し抜けに上げた大声に、オド老師が振り返る。かの老人はぼくの手元を見て、それからほっとしたような笑みを浮かべた。
「思いのほか早うございましたな、ハイアート様。ですが、これでようやく修業の入り口に着いたところと言えましょう。大丈夫、あなた様ならきっとやり遂げられましょうぞ」
ぼくは眉をハの字にしながらも、首を縦に振る。
重みでキィキィと鳴る車輪の耳障りな音も、今は何だか心地よいリズムのように思えた。