序章(三)「さぞスゲェ魔術師のタマゴなんだろうなぁ」
「……そんなわけないか」
粗末な寝床から上体を起こして、ぼくは独りごちた。結局いつの間にか眠っていて、気づいたら屋根の小窓から差す太陽の光で、部屋の中は薄明るくなっていた。
夢ではなかった。純然たる現実だった。
家に帰してほしいと、泣き叫んで懇願したい思いはある。でも、ぼくがいないと世界が終わると大まじめで言ってくる人が聞いてくれるはずもないから、そんなことしてもお腹がすくだけで何の得にもならないんだろう──
ぼんやりとしながら隣の部屋をのぞくと、深緑のロープ姿のお爺さんがテーブルに着き、紙束をひもで背をとじたノートのようなものに羽のペンで書きものをしているところだった。
やがて帳面から顔を上げ、オドはぼくが隣の部屋から見ていることに気づくと、
「ガウテン」
にこりと笑って、張りのある声でそう呼びかけてきた。
ガウテン?
たぶん、「おはよう」とか、それに類する言葉なんだろう。昨日かけてもらった、翻訳の魔術だか精霊術だかの効果がもうなくなってしまったに違いない。
「……ガウ、テン? あ、あの、魔術の修業って、一体──」
老人はうんうんとうなずき、昨日のようにぼくの耳元に手をかざした。すぐにオドの言葉が、日本語へと変わっていく。
「ハイアート様、さっそくダーン・ガロデ語での朝のあいさつを憶えてくださったようですな。少し遅くなりましたが、朝げを済ませましたなら、魔力について学んでいただくとしましょう」
ぼくは小さく首を縦に振った。
やけに固くて口の中がひどく乾く黒いパンと、チーズだか何だかよく分からない味の薄い白い塊で腹の虫を黙らせると、ぼくはオドに招かれて家の外に出た。
「ああ……!」
思わず、のどから驚嘆が漏れた。
オドの住む小さな石造りの家は、豊かな森林と、壮大な山々に囲まれた大自然の中にあったのだ。
「ここって、こんな山の中にあったんですね」
「そうですな。魔術の研究をするとなると、人里から離れていた方が何かと都合がよいので。さてハイアート様、修業を開始いたしましょう」
ぼくは身を硬くした。修業と聞いても、どんなことをするのか想像がつかない。滝に打たれるとか、重力を何倍にも高くした部屋で鍛えるとかではないだろうけど……。
「まずは、目に見える形で魔素を魔力へと変換する技術を会得していきましょう。昨日拙がやりましたように、手の上にある魔素を魔力に変換するのです」
「ど、どうするんですか……?」
一応手のひらを上に向けて、ぼくはおずおずと訊ねた。
「まずは、手の中で魔素が魔力に変わる感覚を憶えてくだされ。参りますぞ」
そう言うと、オドはぼくの手のひらに指先を近づけた。その周りにたゆたう黒いもやが彼の人差し指に巻きつくように流れ込み、ふわっと銀色の光の球に変化した。
「うわっ……!」
ぼくは叫んで、弾かれたように手を引っ込めた。
「どうでしょう。何か感じましたかな」
「痛くはないですが……たくさんの針に突っつかれたような感触がありました」
「そうですな。その感覚を再現するように、魔素へと働きかけることです。さあ、やってみてくだされ」
「えっ、もうやるんですか」
「習うより慣れが肝心な業でございますから。まずは試して、肌でそれを感じ取っていただくのが一番かと存じます」
何度も首を傾げながら、とりあえず再び手を開いて、その上に霧のような魔素をまとわせた。
手に感じた魔力の感触を思い返しながら、じっと見つめていても、変化はない。
手を揺らしてみたり、指を小刻みに動かしてみても、魔素はただゆらゆらとうねるのみだった。
「……あの、何も起こらない、です……」
「あせる必要はありませんぞ、ハイアート様。魔素と魔力を認識できているのであれば、必ずやできるようになりましょう──気長に続けてみてくだされ」
長く白い髭をなでながら、オドは微笑みを絶やさずに言った。
ここダーン・ダイマの時間で五日が過ぎた。
この世界の時間で……というのは、ぼくが左手首につけたままのデジタルの腕時計が信用できるなら、太陽が昇ってから沈み、また元の位置に戻るまで地球時間だと大体二十時間程度だからだ。
なので地球では約百時間、丸四日間ほど経っているはずだ。いきなり居なくなって、母さんや父さんが心配しているかもしれないと思うと胸が苦しい。
高校の同級生には、真剣に心配されるほど仲のいい友人はいないけど──たった一人だけ友人と言える、幼なじみはどうしてるんだろう。心配ぐらいはしてくれているのかな……?
「ハイアート様。まもなく里に着きますぞ」
「うん……」
ゴトゴトと鳴る木製の車輪の音に混じってオドの呼びかける声が聞こえ、ぼくはぼんやりと生返事を返す。ぼくはオドの操る荷車の荷台に腰を下ろして、移動の間中ずっと、手の周りに魔素をまとわりつかせて修業を続けていた。
黒いもやが魔力に換わることは、この五日間で一度もなかった。根気がない方とは思わないが、こうも結果の出ないことを延々と繰り返しているのにも限界がある。
だから、オドが山を降りて買い物をするという話にぼくは喜んで飛びついた。何でもいいから、日々の生活に変化が欲しかったし、オド以外にこの異世界にはどんな人がいるのかにも興味があった。
今乗っている荷車は、本来なら馬か牛をつないで引かせるもののようだ。でも実際に荷車を引く動物はオドの住むあばら家にはいなくて、オドが馭者の席に乗って魔力で空中に何かの複雑な図形を描くと車輪がひとりでに回り出したので、魔術ってそういうこともできるのかとぼくは目を剥いて驚いた。
魔素を魔力に換えることができたなら、ぼくも魔術が使えるのかなと、少し前にオドに訊いた。しかしオドは少し悲しげな表情をして首を横に振り、
「魔素に耐性がない者は、すなわち魔力を制御できる体質ではないということです。拙もあなた様に魔素の染性が十分にございましたならば、喜んで魔術を授けたのですが……」
とひどく残念そうに言った。魔術も使えるとなれば、この修業にも俄然やる気が出るというものなのに……。
峠道はやがて緩やかな勾配へと変わり、平坦でよく踏み固められた広い道へと変わっていった。道の先には、細く白い煙の線がいくつか、青い空へと立ち上っているのが見える。
「──あの煙の下に、町があるんですか」
「そうですな。一般的に山麓の村と呼ばれております。小さいが豊かな農村です」
道は、オドの住むあばら家よりは小ぎれいな小屋の並ぶ集落の中へと続いていた。荷車はその合間をぬって進み、オドはその中の一軒の家の前で魔術を消して荷車を停止させた。
「ご主人。やっておるかの」
オドは荷車を降り、ぼくはその後について荷台から飛び降りる。その家の木の扉をゲンコツで軽く叩きながら、オドは大声で呼びかけた。
「おう、オド老師か。いつものでいいか」
間を置かずに扉が開いて、毛むくじゃらの中年がのそりと現れた。オド以外の異世界人がいないとは思っていなかったが、実際に目の当たりにすると何か感慨深いものを感じる。
「いや、いつもの倍の量で頼みたい。我が家に食いぶちが一人増えたものでな」
「食いぶち?」
中年男はいぶかしげに返すと、オドのすぐ後ろに立っていたぼくに視線を向けた。男の両眼が、珍しいものを見るように丸く開かれる。
「何でえ、このちびっ子。まさか老師の孫とか?」
「そうじゃな、拙の──弟子といったところかの」
「へぇ!」
男はさらに驚きを示した。視線がますます、好奇心にあふれたものに変わっていく。
「老師が弟子を取るなんて! さぞスゲェ魔術師のタマゴなんだろうなぁ。ご祝儀だ、いつもの代金でつけておくから持っていきな!」
中年男は奥へと引っ込み、ほどなくして大きな肉の塊を抱えて外に出てきた。肉屋の主人だったらしい。
肉屋は家屋と荷車を四往復して、四つの肉塊を荷台に転がした。ぼくはその時、その肉が首と四本の足を切り落としただけの豚の身体ということにはじめて気がついて、少し気分が悪くなった。
「すまぬのう。お言葉に甘えさせてもらうぞ」
「いいってことさ。それよりさっき、村にゲイバムからの使いが来てるって聞いたぞ。老師の家に向かう予定だが、今から出ると帰りが夜になって危ないから、翌朝に出発するっていう話らしいが──」
肉屋の話に、オドはしまったといった表情で、生え際の後退した自分の額をぴしゃりと打った。
「拙としたことが、うっかりしとったわ。まぁ、家までご足労願わずに済んで幸運じゃったと考えようかのう。ハイアート様、少し寄り道しますがよろしいですかな」
断る理由も必要もなく、ぼくはただ黙ってうなずきを返した。