序章(二)「全部……毒……?」
……「マソ」ッテ……ナンダ……? ドク……?
イミガ、イミガワカラナイ……ワカラナインダヨォォ!
「これはマズいですな。ハイアート様、失礼をご容赦ください」
オドが指先で、空中に何かをなぞり出した。
その軌跡のとおりに、ほのかな光の模様が宙に浮かび上がる。その光でできた図画が銀色に強く輝き出すと、途端にぼくの全身が巨大な手のひらにわしづかみにされたかのような圧迫感を覚え、ピクリとも動けなくなった。
「ウ……ガ……ガァァ……!」
「少し辛抱してくだされ。体内の魔素を、魔力に変えて無害にする魔術を施しますゆえ」
胸元に、複雑な図形を描く指先の触感が伝わる。
すると……急に頭がスッキリとして、さっきまでの腹が煮えくり返る思いが、ウソのように心が穏やかになっていた。同時に身体中の力が抜けて、ぼくは床の上にごろりと横たわった。
「はっ、はぁっ……ぼ、ぼくは一体、何が……どうなったんですか」
「面目次第もございませぬ。ハイアート様は魔素の毒気に当てられて、心に異常をきたしたのであります──魔素の毒に耐性のない者はごくまれでありますゆえ、よもやハイアート様にそのようなことがあろうとは思いもよりませんでした」
再び、オドがひざをついてかしこまる。上体を持ち上げて、ぼくはため息をつきながら首を横に振った。
「ま、魔素って何ですか……毒って……わけが分からないです。ど、どこに……あるんですか」
「空気中の、至るところにございます。ハイアート様には見えぬのでございましょうか」
オドの言葉には、不安げな色が漂っていた。
ぼくは周囲をぼんやりと見回し、それからオドに視線を合わせて、もう一度かぶりを振った。
「……大変失礼しました。ハイアート様がこのダーン・ダイマとは世の理を異にする世界から来られたことを、失念せぬよう心がけねばなりませぬな」
オドは大きく息をついて、それから、おもむろに上に向けた左の手のひらを胸の高さに差し出してきた。
「この手の上に、何か見えましたらおっしゃってください。見えますかな……」
ぼくは言われるままに、オドの手をじっと見つめる。やがてすうっと、手の中に先ほどは何かの図の形をしていたのと同じような銀色の光が、球となって不意に出現した。
「見えます……光の、球が……」
「なるほど、魔力は見えておられるようですな。では何度か同じことを行いますので、手の上をあまり注視せず、眺めるようにして見ていてくだされ」
光球がかき消え、一時置いて、再びオドの手の中に光が生まれる。
光っては消え、光っては消え。最初は不思議な現象に興味を引かれていたものの、何度も繰り返すうちにだんだんと好奇心も薄れてきて──
「……あっ!」
その時、異変に気づいたぼくは思わず声を上げた。オドの表情がわずかに引き締まる。
「何が、見えましたか」
「一瞬だけ……光ができる時に、その周りに何か黒いものが見えたような気がしました」
「では、もう一度。今の感覚を忘れぬようにして、よくご覧ください」
光が消えて、また灯る。その直前に、黒い霧のようなものが浮かんで、その中心から光が湧いて出るのが見えた。
光が消えて、灯る。黒い霧は光に変わる前に、辺りからにじみ出るようにオドの手のひらに漂ってくるのが分かった──
「ああ……!」
ぼくは感嘆を上げた。彼の手のひらだけじゃない。
黒くもやもやとしたものは、うっすらとオドの身体の周囲を取り巻いていた。
よく見れば、ぼくの周りにも、この部屋中にも。
その薄暗さに関係なく、空気中にゆらゆらとたゆたうそれらがはっきりと見て取れたのだ。
「見えてきましたかな。それが魔素です、ハイアート様」
「こっ、これが、全部……毒……?」
ぼくは鼻と口を手で覆いながら、ひどくうろたえる。オドはホッホッとサンタクロースみたいな笑い声を上げた。
「恐るるに足りませぬ。この魔素というものは、魔力に換えてしまえば無害なのです。今のように術式で外部から魔力に換えることもできなくはないですが──できることなら己で魔力に換えられるよう、修業された方がよろしいでしょう」
修業、という言葉にぼくが表情を固くすると、オドは不意に、顔中のシワを動かしてにこりと微笑んだ。
「ですが、急ぐことはありません。まずは、お食事と……それから本日はお休みいただいて、修業は翌朝からということにいたしましょう」
ほっとしたと同時に、ぼくは召喚された時にまだ夕食前だったことを、今さらながら思い出した。
石組みで築かれており、下部に隙間の空いた、ススの匂いのするモノの前に屈み込んだオドは、その脇に積んである木切れを手にして隙間に差し込んでいく。
要するに、かまどだ。
中学の林間学校でも似たようなものを使ったことがある。ガス管も上水道もない、文明レベルの低い世界に来てしまったのだなと、改めて実感する。
きっと、今しがたかまどの下に差し入れたたきぎに火をつけることもひと苦労なのだろう。ぼくがかまどを使った時は、マッチで新聞紙に火をつけてたきぎを焚いたのだけど、ダーン・ダイマにはそのどちらもなさそうだから。
そう思いながら、ぼくはオドの手元をぼんやりと眺めていた。その手にはマッチはもちろん、火打ち石などたきぎへの着火に使えそうな器具を何ひとつ携えていない。ただ開いた両手をたきぎの前にかざしている。
その手の周りの空気が、不意ににじんだ。シャボン玉の表面に浮かぶ油分のような鈍い虹色の光が、そこにじんわりと現れたのだ。
それがオドの手の中に集まったと思ったら、ポッとライターで点したように小さな炎が上がり、すぐにたきぎへと引火して燃え続けた。
「あっ?」
驚いて上げたぼくの声に驚かされたのか、オドがびくりとして勢いよく振り返った。
「ど、どうされましたか、ハイアート様? 拙が何か──」
「い、いや。いきなり火が着いたから……それも魔術?」
オドはああ、と感嘆を上げてうなずき、柔らかな笑みを浮かべた。
「ハイアート様は、精霊術もご存じなかったですな。ただ今の業は、精霊力を用いて火を具現化したのでございます」
「精霊術……ですか?」
「左様にございます。魔術が魔素から魔力を得るように、精霊術は大気中の精霊より精霊力を得て……」
再び、オドの手の内にぼんやりとした輝きが浮かぶ。よく見ると、彼の手に唐突に現れたものではなく、手の周囲からゆらゆらと虹色のモヤモヤが集まって密度が濃くなったためにそう見えたのだと分かった。
それに気づくと、七色のにじみは魔素と同じように、空気中に薄くたなびくように広がっているのをはっきりと認識できた。たぶん、これが「精霊」なのだ。
「……かように火の精霊から得た精霊力は、集積し力を高めることにより熱へと変化し、さらに力を練り上げると、火そのものを具現できるのです──」
オドの手の中の精霊が、不意に小さな赤い光の揺らめきへと変化した。その空中に浮かんだ炎をじっと見つめて、ぼくはのどをごくりと鳴らした。
「こんなことが、現実にできるなんて……」
「まずは魔術からですが──いずれ、精霊術も学んでいただければと存じます。適性があればの話ですが」
ドキッと、胸が躍るのを感じた。
「ぼくにも、できるんですか……? こんな風に、火を、生み出すとか……」
「拙は、火精霊術についてはこの程度のことしかできませぬが……ハイアート様は火精霊術をまったく使えぬかもしれませぬし、逆に巨大な火の玉を作り出し、何でも一瞬で消し炭にすることができるような術師になれるやもしれませぬ。そこは、試してみねば分かりませぬな」
オドは微笑を絶やさずに言うと、かまどの上に大きく無骨な金属製の鍋を据えた。何かの肉がたゆたうスープの水面が、その鍋の中でたぷんと揺れた。
やがて鍋から湯気が立つうち、手狭な厨房の中にスープのえも言われない……獣臭さが広がってきた。
お爺さんの料理の腕の問題じゃなく、きっと肉の臭みを消す薬味も香辛料もないからなのだろう。
「──さて、夕げの支度ができましたぞ。大したもてなしもできず大変心苦しゅうございますが、爺ひとりの隠居暮らしではこのような粗末なものしかございませんでして……」
木彫りの器に盛られた、何を煮込んだのかよく分からない食べ物をテーブルに置き、ぼくに着席を促すようにオドは椅子を引いた。
素直に椅子に座り、改めて、スープらしき物体に真正面から向かい合う。
これは、百二十パーセント美味しくない。
確信をもって断言できるけど、これを拒否したからって他にまともな食事が出るとも思えない。
「……いただきます」
向かい側に座って同じスープを自分の前に置き、ぼくが食べ始めるのを待っているかのようにぼくをじっと見ているオドに小さく頭を下げた後、意を決してさじを口に運んだ。
……塩辛い。
いや、塩分は控えめなんだと思う。旨味が足りなさすぎて、塩の味しかしないからそう感じるのだ。
チラっとオドの方を見やると、実にすました表情で、それを食べ進めている。少なくともお爺さんにとっては、これが普通の食べ物なんだろう。
なので、ぼくも努めて無表情になって、ただ口から胃に物を入れる「作業」を黙々と繰り返した。
「……ごちそうさま、でした」
器を平らげて、ぼそりと言った。量が十分とは思わないけど、それ以上食べたいとも思えない。
「ではハイアート様、本日はもうお休みくださいませ。奥に寝床がございます」
オドはぼくの背後にある部屋を指し示し、ぼくはうなずいて席を立った。あまり期待はしていなかったが、奥の暗がりにひっそりと敷かれた薄べったい毛布を見下ろして、ぼくは深くため息をついた。
肌触りのよくないその布に身をくるんだものの、まったく眠れる気がしない。目を閉じてまぶたの裏に浮かぶのは、両親の顔と自分の部屋と、普段の食事のことだった。
今すぐにでも、あの何も不自由のなかった暮らしに帰りたい。目を開けたら全部夢で、自分の部屋でベッドから身体を起こして、今日も学校か……とぼやく、あの退屈でつまらない、穏やかな日常に──