序章(一)「世界を救えだって?」
自分の部屋に帰ってきて、机の脇にカバンを無造作に置き、適当な部屋着に着替えた。
机の前に座り、教科書とノートを開く。
学校から帰ってきたら、何よりもまず先に宿題を片づけてしまうのが毎日の習慣だ。
誰と遊ぶでもなく、真剣に打ち込んでるものもない分、勉強ぐらいは真面目にやらないと本当に空っぽな人間になってしまう。幸い、物覚えは人より多少いいので、一学期の成績は割とよかった。
宿題は一時間もかからないうちに全部終わった。机の上に置いていたスマートフォンに触れて時刻を表示させると、夕食まではまだ間がある。
ぼくは何となくそれを手に取り、特に用もなくいじり始めた。
掲示板のまとめサイトや、小説投稿サイトなど、いわゆる暇つぶしには事欠かないが──普通の高校生は、このスマートフォンという道具を主にSNSやEZトークなど仲間同士のコミュニケーションに利用しているわけで、自分のコミュ下手が悪い意味で普通でないことに、多少のやるせなさを感じる。
もしかしたらスマートフォンの使い方ってのは、人の生き方そのものなのかもしれない。
そうであればぼくは、生まれて死ぬまでの暇つぶしでしかない人生になるのだろう。
それが悪いとは思わないし、それなりに楽しくもある、けど──
ふと、周りがひんやりした空気に変わったことにちょっと驚いて、スマートフォンからぼんやりと顔を上げた。
少し薄暗いその場所には、ぼくの部屋にあった勉強机も本棚も、簡素な鉄パイプのシングルベッドも消えていた。
椅子に座っていたはずが、今は冷たい、石でできた床の上にぺたりと尻をつけて座っている。その石も目が痛くなるような細かい幾何学模様に似た円状の図形が彫られている、変な石だった。
ぼくの正面には、この図形を取り囲むように、黒い石碑が三つ建てられていた。それぞれに床の図形に似ているけど、微妙に違う円模様が刻まれている。
まるで、呪いとか悪魔の儀式に使われる魔法陣のような──
でもぼくの頭は、今ぼくに起こっていることが何なのかが分からなさすぎて、他のことに注意を割いてる余裕がまったくなかった。ただ、無表情でボーっとしていた。
もう少し情報になるものがないかと、きょろきょろと辺りを見回してみる。
壁にひとつだけかけられた、か細い火のついたランプが薄暗さの原因だとは分かったが、ぼくに理解できるものはそれだけだった。
身体をひねって、真後ろを向いてみようとしたその時、目の端に人の形をした影が映った。
老人だった。
年は六十歳ぐらいにも、八十歳ぐらいにも見えた。やや前傾した姿勢で立っていて、身長はかなり低く感じた。深い緑色のだぶだぶの服を着た、長い白髪に長い白髭のお爺さんだ。
その人は、明るい緑色の瞳で、じっとぼくを見ていた。驚いたような、興味深そうな目をしていた。髭で分かりづらいけど、ほんの少し、笑っているようにも見えた。
「あの……何ですか、これは」
何と話しかけていいか上手く考えられず、ぼくはまともな答えの期待できない問いかけをした。
そして、それに対する答えなのかすら、お爺さんの話した言葉からはまったく判断できなかった──日本語じゃなかったのだ。
英語や中国語やフランス語っぽくはなく、たぶんイタリア語やロシア語でもない、今まで聞いたことがないような言語だった。
唯一ぼくがどうしてこんな場所にいるのか知っていそうな人なのに、何を話しているのかさっぱり分からないことにぼくが呆然としていると、お爺さんは長い髭をなでつけながらウーンとうなっておもむろに歩み寄ってきた。
不思議と、怖いという印象はなかった。
そのあと両手でぼくの頭の両側に手を差し出した時はさすがにビクッと警戒したが、お爺さんは目を細めてうなずいたので、抵抗せずにお爺さんがそのままぼくの耳を包むように手のひらをかざすのを黙って見ていた。
すると、とても不思議なことが起こった。
「……し、もしもし、拙の話す言葉が分かりますかな。もしもし……」
謎の言葉を繰り返していただけのお爺さんが、だんだんと、日本語を話し始めたのだ。
いや、そうじゃない。お爺さんの口の動きは、実際に聴こえている日本語とは一致していない。まるで外国映画の吹替版を観ているような感覚だった。
「……はい、分かります……」
ぼくは戸惑いながら、おずおずと答えた。さっきはぼくの言葉を理解してなかったように見えたお爺さんは、今度は言ったことに普通に反応して、うなずきながら表情をゆるませた。
「おお、よろしゅうございます。それで、あなた様をこのダーン・ダイマに召喚いたしましたるは……」
ダーン・ダイマ?
そんな国、聞いたこともない。アフリカか中米辺りにあるんだろうか。
それより、ぼくを「召喚」したと言ったことの方が気にかかる……ぼくのお尻の下にある魔法陣のようなものが、急に本物っぽく見えてきて、全身がぶるっと震えた。
まさか、そんな。マンガや小説みたいなことが現実にあるわけ──
「おっと、失礼いたしました。拙はオド・ゴンズロロ。元はゲイバムで禄を食む魔術師でしたが、今はしがない隠居でございます。あなた様のお名前を頂戴してよろしいですかな」
オドと名乗ったお爺さんは、しまったといった風に苦笑いをした。──名前はいいとして、ものすごく自然に何気なく、この人はサラッと自分を「魔術師」だと言い切ってしまった。美容師とか看護師とか、それぐらい普通の職業みたいな雰囲気で。
まさか、本当に、ぼくは──
「……白河速人、です」
「シラカー……ハイアート様、ですな。では、ハイアート様」
老人は、交差させた両手を自分の胸に当てて、片膝をついて身をかがめた。まるで神様か王様でも前にしてかしこまるかのように、低く低く、頭を垂れたのだ。
「ハイアート様をこの世に召喚いたしましたるは、やがて来る破滅的な動乱より世界を救っていただきたいがため……どうかダーン・ダイマの救世主となってくださいますよう、何とぞ、お願い申し上げます」
ぼくはただ、絶句していた。
救世主になれ? 世界を救えだって?
できるわけがない。
これといって何の取り柄もない、普通の──いや、普通よりダメな高校生のこのぼくに。
ぼくが人より得意なことなんて、せいぜい三国志の武将や軍師の字を全部憶えたことぐらいしかない。運動はもちろん、頭のデキだって飛び抜けたものがあるわけじゃないんだ。
何でぼくなのか、まったく納得ができない。
ただ──ぼくよりずっと、ずっと年上のお爺さんがまじめな顔をして、こんな風に頭を下げて願いごとをしてくるのだから、きっとぼくである大事な理由があるはずだ。
「なぜ……ぼくにそんなことができると、思ったんですか」
空気がピリピリするような沈黙のあとに、ぼくは口を開いた。その問いに、オドは何の戸惑いも見せず、間髪を入れずにきっぱりと答えた。
「それは、予知を視たからでございます」
「……予知?」
「左様にございます。最初に視たのは十数年前──拙がゲイバムの近衛魔術師隊長の任を退いた頃からですが、視たと申しましても視覚ではなく、聴覚でもなく──心のうちに浮かび上がるように、叩きつけるように、それは拙に訴え続けていたのです」
「どんな……ことを?」
「この地の行く末、しかし決して遠くない未来に、世を破滅せしめる大きな動乱が襲うであろう。しかし、今とは違う時間、こことは違う世界の彼方より来たる『無垢なるもの』により救われ、この地に恒久の平和をもたらす──と」
聞いても、すぐに腑に落ちるような話じゃなかったけど──たぶん、オドはぼくが「無垢なるもの」だから召喚した、ということなのだろう。
「『無垢なるもの』……とは何ですか?」
「それが何を意味しているかは、分かりませぬ。しかし、これを未来の予知だと認識した時、拙はこのことを拙にしかなし得ぬ使命であると強く感じたのです」
わずかに面を上げて、オドは上目づかいにぼくを見つめた。険しく真剣なまなざしだった。
「拙は自分の持ち得る魔術の知識と技術とを尽くして、予知にあるとおりの違う時間、違う世界を目指しました。そして今まさに、この世の理とまったく異なる世界よりご尊来いただく『召喚魔術』を成すに至ったのです」
背中に寒気を感じて、ぼくはぶるっと身体を震わせた。このお爺さんから、老人とは思えないほどの熱意とひたむきさを感じたからだった。同時に、その真剣さを正面から受け止める責任がぼくにはある、とも感じていた。
だから、ぼくは言った。
「ぼくに……何ができるんでしょうか」
オドは、面を上げて、柔らかく笑んだ。
「そうですな、まずは──ハイアート様、魔術の心得はございますかな」
現代日本ではまずあり得ない会話に、ぼくの中の常識の方がおかしくなりそうだ。ぼくはゆるゆると頭を横に振った。
「……精霊術の方はいかがでしょう。何がしかの武術などは──」
オドが立て続けに訊ねてくるが、ぼくは何度もかぶりを振った。武術なんてろくにケンカもした憶えすらないし、精霊術に至ってはそもそもの意味すら分からない。オドの見当違いな物言いに、ぼくはだんだんとイラついてきた。
「さてもさても、救世主たれば何かしら難ごとに立ち向かえる業があろうかと思いましたが……いやいや、何かあるはずです。何かが……」
白髭をさすりながら考え込むお爺さんに、さらにイライラが募る。頭に血が上ってクラクラしてきた。
「……そんなのないんだよ。ぼくには何にもないんだ。ぼくなんかよりもっと強い人も頭のいい人もいるのに、何で、ぼくなんだ!」
自分でもびっくりするほど、語気が荒くなった。目を見開いておののくオドに、強い怒りの感情が急に湧き立って、カッと火がついたように身体が熱くなった。
「勝手に連れてきて、あれも分からないこれも分からない! ハッキリさせてよ、何で……ナンでぼくガ、救世主ダ何ダにサセられ……オカシイ……ナンデダ……!」
おかしい。何かが変だ。
今までの人生でこんなに激しい怒りを覚えたこともなければ、オドにそこまで腹を立てる道理もないのに、なぜこんなにも抑えられないのか。
怒りはどんどんたかぶって、目の前が暗くなり、意識が遠のいていく──
「その、目の濁りよう……もしや、『魔素』の毒に──?」