中 残機
その日からお母さんは人が変わってしまったようだった。
お母さんはあんなに嫌っていた勇者のドナーに自身も登録すると、それまでの残機ドナーに否定的な立場から一転して文句を言う事は一切なくなっていた。それどころか残機ドナーに登録を拒んでいた人たちに対して攻撃をする方に回ってしまったのだ。
わたし達の宿屋も少し前まで誹謗中傷の落書きや張り紙を店の前に張られたり罵声を浴びせられたりした。それはとても嫌な事で、お母さんだって嫌な思いをしたはずなのに、今はお母さんがそれをする側に回っている。
まるで死んだ道具屋のおばさんがお母さんに乗り移ってしまったかのようだった。
否定的な立場の先頭に立っていたお母さんが立場を真逆にしたことで、勇者の残機ドナーに登録しない人は悪い人という一時期は収まり掛けていた風潮がわたし達の町で再燃する事となった。
「わたしが勇者の残機ドナーに登録したからなの」
お母さんが変わってしまった原因はそうとしか思えなかった。
でも、わたしにはお母さんが何を考えているのか全くわからない。どうして急にあんなに変わってしまったのか。
そんな日が続いた夜。わたしはお父さんの部屋のドアをノックした。
コンコンという渇いた木の音の後に、返事が返ってくる。その返事を待って扉を開けると、わたしは部屋の中に入った。
お父さんの部屋はベッドの他に沢山の書物や机が置いてありちょっとした書斎のようになっている。その机の前の椅子にお父さんは腰掛けていた。
「アイちゃん、どうしたの?」
机の上に置かれたランプの光にお父さんの優しげな顔が浮かび上がっている。
「眠れないのかい?」
そう訊ねるのにコクンと頷くと、わたしはベッドに腰を下ろした。そして、少し考えてから思い切ってお父さんに声を掛けた。
「ねぇ、お父さん。お母さんはどうしちゃったの?」
あまりにお母さんの態度が急変してしまった事の理由が知りたかった。やっぱりわたしが勇者の残機ドナーに登録したからなのか。
わたしがその事を口にすると、お父さんは「そうかもしれないね」と少し間を置いて応えた。
「やっぱりそうなの? なんで?」
「お父さんはお母さんじゃないから、本当の所はわからないけどね。でも、お母さんはお父さんに話してくれた事でいいなら教えてあげようか。アイちゃんも勇者の残機はドナーの中から無作為にランダムで選ばれるって事は知ってるよね」
「うん」
それは教会で勇者の残機ドナーに登録する時に神父さまに説明された事だった。勇者さまが教会でのお祈りや蘇生魔法で生き返った時に選ばれる残機は残機ドナーの中から無作為に完全にランダムに選ばれるのだと。
「だからお母さんは残機のドナーを増やす運動を始めたんだよ。勇者の残機のドナーが増えれば、その分だけアイちゃんに順番が回ってくる確率が低くなるから」
「それってなんだか……」
いいのかな。
わたしがお父さんから聞いた理由に言い淀んでいると、お父さんが目を細めてわたしに語りかけた。
「アイちゃんはそんなお母さんは嫌いかい?」
「……」
わたしは言葉を返す事が出来ずに黙りこんだ。それをお父さんは無言の肯定と受け取ったのか取り繕うように言った。
「確かにお母さんのやっている事は人としては正しくないかもしれないね。でもお母さんとしては正しい事なんだよ。アイちゃんを守るためにしている事なんだ。わかってあげてほしいな」
「うん……」
今まで言っていた事も全部ひっくり返して、わたし達がやられて嫌だった事をかつてのわたし達と同じ立場の人にやっている。そんなお母さんの姿はあまり見たくなかった。でも、わたしの為なんだっていう事もわかる。
「やっぱり、残機のドナーになんて登録しない方がよかったのかな」
そうすればお母さんが自分の心を裏切ってまでこんな事をする必要もなかった。
「そうかもね」
「やっぱり……」
わたしが眉尻を下げていると、お父さんがふっと優しい顔をした。
「お父さんもアイちゃんの父親だからね。お母さんと一緒でアイちゃんの事を心配しているよ。お母さんが無理だったなら、出来ればお父さんには事前に相談して欲しかったな」
「それは……ごめんなさい」
わたしがおずおずとした口調で今更ながらに謝ると、お父さんが「でも」と続けた。
「アイちゃんが自分で決めた事なら、お父さんもお母さんも責めないよ。アイちゃんは自分の中の正義の心に従って残機ドナーに登録したんだろう?」
「わたしは、ただエマちゃんの無念を勇者さまに晴らして欲しかったの」
正義とか、よくわからないけど。あの時はとにかくこの残酷な世界を変えたくて、自分に出来そうな事は勇者の残機ドナー登録するくらいだったから。
「なら、気にしなくていい。お母さんの事もアイちゃんは気にする事はないよ。アイちゃんは世界を救いたいという真っ直ぐな気持ちでドナー登録しただけなんだから。その真っ直ぐな気持ちを大切すればいいんだよ」
「お父さん……」
わたしがぎゅっとパジャマを握り締めていると、お父さんは落ち着いたトーンで言った。
「さ、アイちゃん。もう夜も遅いから早く寝なさい」
「うん」
わたしは促されてベッドから立ち上がると、
「あの、お父さんありがとう。話してくれて」
「あんまり思いつめちゃいけないよ。じゃあ、お休み」
「お休みなさい」
そう言って、部屋の扉のドアノブに手を掛けた時だった。
「――――!」
後ろでバタンという物音がした。
「お父さん?」
振り返ると椅子から崩れ落ちるようにお父さんが倒れていた。
「お父さん!」
慌てて駆け寄るが、お父さんは倒れたままピクリともしない。
「お父……さん?」
恐る恐る倒れているお父さんの体に触れようとして、ぱっと手を引っ込める。
そして慌てて立ち上がると部屋を出た。
「お母さん! お母さん! お父さんが――」
お母さんの部屋の扉をドンドンと叩きながら、ただひたすらにまるで壊れたように大きな声でお母さんを呼び続ける事しか出来なかった。
その日、お父さんが死んだ。
心臓発作だった。残機に選ばれたのだ。
お父さんが勇者の残機ドナーに登録したのはわたしとお母さんよりも大分前の事だったらしい。以前、お母さんが勇者の残機ドナーに否定的だった事から、その事で家に誹謗中傷の張り紙をされたり、落書きや罵声を浴びせられる事があった。それは一時の事ですぐに収まったのだけど、わたしはそれが時間と共に自然と収まったものだと思っていた。
しかし本当は違ったのだ。
あの時事態が収まったのは、本当はお父さんが勇者の残機ドナーに登録したからだった。そうする事で周りからの声を抑えてくれていたのだと、教会の隣にある墓地でひっそりとしたお葬式をしながらお母さんがわたしに話してくれた。
わたしは散々泣きじゃくった赤い目を腫らしながら、お父さんの棺にお花を手向けるとお母さんと一緒に土をかけて埋めた。
今の時代人が死ぬなんて特別珍しい事じゃないから、お葬式はびっくりするくらい簡素にあっさりと終わった。わたしの感情を置き去りにして。
今でも信じられない。昨日まで喋っていたのに、わたしの相談にも親身に乗ってくれていたのに、あんなに優しかったお父さんにもう会う事も声を聞く事も出来ないなんて――。
「勇者さま、万歳。勇者さま、万歳――」
子供たちの声が遠くから聞こえてくる。
どうやらわたし達の他にもお葬式をしている人達がいるみたいだった。察するにお父さんと同じように残機に選ばれて亡くなったのだろう。お墓に向かって「勇者さま、万歳」と言いながら手を上げている。
でも、子供しかいないみたいだけど。
「アイ、お母さんは神父さまともう少しお話があるから、その辺に居てくれる?」
お父さんのお葬式を終えて教会に戻るとわたしとお母さんは神父さまに挨拶をする。
それからわたしにそう言うとお母さんは神父さまと話し込んでしまった。これからの事とかお墓の事とか色々あるらしい。お母さんは少しと言っていたけど中々話は終わりそうにない。
そこら辺に居てと言われて、しばらくは教会の椅子に座って話が終わるのを待っていたが、やがて手持ち無沙汰になって立ち上がると教会の建物の外に出た。
「お父さん……」
ぼんやりと景色を眺めていると、教会の隣の墓地が目に入る。
悲しみが湧き出してじんわりと景色が滲み始めた所で声を掛けられた。
「もしかして、アイちゃん?」
ゴシゴシと黒い礼服の袖で涙を拭って声がした方を見ると、わたしと同じ位の黒い礼服を着た男の子が立っていた。
「やっぱり、アイちゃんだよね」
わたしがそうだけど、と言うと男の子は「ああ、やっぱり」と手を叩いた。
「あなたは誰?」
男の子はどうやらわたしの事を知っているようだが、わたしの方は全くこの男の子の事を知らなかった。わたしが眉を顰めながら訊ねると、男の子は教会の隣に建っている建物を指差した。
「僕はユミル。そこの孤児院に住んでいる子供だよ」
「孤児院……」
教会の隣には墓地があるが、もう一つ隣には身寄りのない子供達が暮らす孤児院がある。墓地と共に教会の敷地内にあり、教会の援助によって成り立っている。
たまに教会の近くに来ると、教会のシスターと一緒に賛美歌を歌う声が聞こえてきていた。
「あ……」
さっきの墓地の子供も孤児院の子供達だったのだろうか。
わたしがその事を言うと、ユミルと名乗った男の子は照れたようにはにかみながら「そうだよ」と言った。あそこにユミルも居たのだとか。
ユミルはわたしの隣に来ると、
「よろしくね。アイちゃん」
と、顔を覗きこんでくる。若干馴れ馴れしい態度にわたしは困惑しながらよろしくと返した。
「どうして、わたしの事を?」
「アイちゃんは僕達の間では有名人だから」
「どういう事?」
わたしが首を傾げていると、ユミルは「いや」と仕切りなおすと、
「まあそれはいいとして、君のお母さんが来ていたからもしかしたらそうなんじゃないかと思って。お父さん残機に選ばれて死んじゃったんだってね」
「うん……」
「悲しい?」
「悲しい」
「それだけ?」
「何が言いたいの?」
わたしがユミルの意図を汲み取れずにいると、ユミルが言葉を継いだ。
「お父さんが残機に選ばれた事に怒りを覚えたりはしないの?」
「それは……、ランダムだし」
「本当にランダムだと思ってる?」
「違うの?」
「いや、なんでもない」
「……」
何なのだろう。わたしが眉を潜めていると、ユミルがじっとわたしを見た。
「アイちゃんは残機で死ぬのはしょうがないって思ってる?」
「……」
わたしの無言を肯定と捉えたのかユミルが続けた。
「ふぅん、お父さんが死んだのに随分ドライなんだね。そんなにドライでいられるものなの?」
「だって、しょうがないでしょ。しょうがないものはしょうがないんだから。しょうがないじゃない」
わたしがそう言うと、ユミルはふっと鼻で笑うような仕草をした。
「しょうがない。みんなそう言うね。時代が悪い。戦争が悪い。そもそも魔王が居るのが悪いっていうのもあった。アイちゃんもそう思ってるんだ」
「……当たり前でしょ」
時代が悪くて、戦争が悪くて、魔王なんてものが現れたのが悪くて、それに対抗できるのは勇者だけで、勇者だって強いモンスターと戦えば死んじゃうからそれを生き帰す為には残機が必要で、誰かが残機のドナーに登録しなければ残機はなくなってしまう。
残機がなくなれば、この世界は終わってしまうしかない。
だから残機のドナーは必要で残機に選ばれて人が死ぬのは仕方ない事。その考えはこの世界の人なら誰だって持っていると思う。多分、あんなに勇者の残機ドナー制度を非難していたお母さんでさえも。
「完全に思考が麻痺してるね」
「ユミルは違うっていうの?」
「いや、僕もそう思ってるよ。これは仕方のない事だって」
ユミルはそう言って肩を竦める。
「でも、アイちゃんがそれを言うのは許せない」
「……っ」
そしてユミルがわたしの事をジロリと睨みつけた。わたしはその鋭い視線に思わず体を小さくする。
「同調圧力で無理やり残機ドナーに登録させられた大人たちがそれを言うのは仕方ないと思うよ。でもアイちゃんが勇者の残機ドナーに登録するまでは、子供にまで強制するような風潮はなかった」
ユミルはそこまで言うと、声のトーンを一段低くした。
「さっき、アイちゃんは僕達の間では有名人だって言ったよね。僕ら孤児院の子供たちは全員アイちゃんの事知ってるよ。だって僕らずっと言われ続けたんだから、アイちゃんは残機ドナーに登録したよ。あなた達はしないの? って。僕達の孤児院は教会の援助で成り立っているんだから、そう言われたら断り続けられるわけがないよね。子供だからと見逃されていたのにアイちゃんのせいで壁が取っ払われてしまったんだ。特にアイちゃんのお母さんはすごかったよ。あんなに残機ドナーを子供にまで背負わせるべきじゃないと言って僕達を守ってくれていた人が、自分の娘が残機ドナーに登録した途端態度が一八〇度変わって責め立ててくるとは思わなかったよ」
お母さんは強制で登録しなければいけない空気が子供にまで及ぶのをとても気にしていて色々と活動していたらしい。でも、それもわたしが残機ドナーに登録した事で変わってしまった。
「ごめんなさい……」
わたしが小さな声で謝ると「別に、謝らなくていいけど」とユミルは突き放すように言った。
「ユミルはわたしに恨み言を言いに来たの?」
「恨み言を言いに来た……半分は」
「半分?」
じゃあ、もう半分は?
「もう半分は、理由を訊きに来たんだ。勇者の残機ドナーに最初に登録した人にはきっと高尚な理由があったはずだ。その人はもう居ないだろうけど、僕はそれが知りたいんだ」
「それをどうしてわたしに?」
「多分、アイちゃんは知ってるから。僕らアイちゃんの自己犠牲の精神に全員巻き込まれたわけだからね。その理由がしょぼかったら恨み言が全部になる事になる」
「わたしは……」
わたしが勇者の残機ドナーに登録したのは、親友のエマちゃんがモンスターに襲われて死んでしまったから。どうせモンスターに殺されてしまうくらいならって。
「つまり、諦めたの?」
違う。それはわたしにも何か出来る事がないかと思ったから、それが勇者の残機ドナーに登録くらいしかなかったから。
根底にあるのは諦め、でもまだ希望は残ってる。
あれから色々あったけど、今もわたしの心の中にある理由は一つだった。
「この世界の平和の為に」
「だってさ、みんな――」
ふっと風が吹いた。
目を瞑って開くと、誰も居なくなっていた。
「ユミル……?」
わたしがキョロキョロとしていると、
「アイ、お待たせ」
「あ、お母さん」
神父さまとお話していたお母さんが帰ってきた所だった。
どうやらユミルはお母さんと顔を合わせるのを避けて居なくなってしまったようだ。
「行きましょう」
「うん」
わたしは頷くとお母さんの手を握る。
ちゃんとユミルに伝わっただろうか。その事が気になって次の日にわたしが教会の隣の孤児院を訪れると一人のシスターが誰もいない孤児院の掃除をしている所だった。