プロローグ いつかの前日譚
真夜中の山間部。
鬱蒼とした原生林が生い茂る、深く暗い山の中。
『日本にまだこんな場所が残っていたのか』と思うような秘境の地に、突如轟音が鳴り響いた。
木々が大地ごと揺れ動き、枝や葉が音を立てて擦れ合う。
しかし、生じた喧騒がそれ以上広がることはなかった。小動物が騒がしく逃げ散ることもなければ、鳥達が慌ただしく飛び立つこともない。
山あいに反響して木霊となった轟音が収まると、辺りは再び元通りの静けさに包まれる。
不自然であった。
いきなり轟音が生じたたこともそうだが、それ以上に、その轟音があまりにもすんなりと収まったことが。
生物の気配が薄い、という範疇を明らかに越えている。生命の息吹を全く感じることができない。
しかし、『ここ』ではそれは普通のこと。むしろ生物の気配などある方が不自然だ。
なぜなら『ここ』は、日本ではない日本。
『電脳世界に再現された日本』という、極めてバーチャルな空間。
具体的に言うならば、リリースされてそろそろ半年が経というかというゲーム『アトラクタ・バーサス』の中であった。
この世界の地上には、鳥も小動物もいなければNPCすら存在しない。
意思を持って動くものはただ二つ。プレイヤーと、その敵のみ。
先ほどの轟音も一人のプレイヤーが立てたものだ。
そのプレイヤーのことは、変わり者と言っていいだろう。
現実には存在しない便利な移動手段のあるアトラクタ・バーサスにおいて、それでも交通の便が悪いとされるこのような秘境に、わざわざ足を運んで狩りを行っているのだから。
その人物は深く暗い山の中、独り静かに佇んでいた。
やや長身で筋肉質な体躯に、短く切りそろえられた黒髪。普段は堅苦しさを感じさせる鋭い目も今は閉じられ、口元はきつく引き結ばれている。
プレイヤーネームは『イチヤ』。
両腕には薄手のガントレットが着けられているが、その手に武器は握られていない。
イチヤは拳を軽く握り、集中した様子で耳を澄ませていた。
このゲームでは、敵が湧き出る際に僅かなノイズ音が発生する。普段は気づけない程の小さな音なのだが、ここまで静かな場所であればその音から敵の位置を探ることができる。
直後、イチヤの耳が微かなノイズを捉えた。
後方。距離約二メートル。近い。
鋭く振り返ったイチヤの目の前には、すでに敵が迫っていた。身の丈二メートルはあろうかという、巨大な蟷螂型のモンスター。大きな複眼を爛々と輝かせ、闇に溶け込むような黒染めの大鎌を振り上げている。
モンスターネーム、『”断裁合切”ディバイド』。二つ名付きネームドモンスターと呼ばれる特別な種類の敵で、その強さはボスを除けばトップクラス。
特に黒鎌による一撃は防御不能とも称されるほどで、並のプレイヤーであれば装備ごと体を両断される程の切れ味を誇る。
数々のプレイヤーを屠ってきたその一撃が、イチヤに向かって振り下ろされる。
しかし彼が取った対応は、『避ける』でも、『往なす』でもなかった。
鋭い鎌に向かって躊躇なく一歩踏み込み、その勢いのままに拳を突き出す。
彼が選んだのは、『殴りつける』という選択肢。
大きく分厚い鎌と、薄く軽量なガントレットが激突する。
しかし、打ち勝ったのは拳であった。
大鎌が砕け散る荒々しい音が静寂を突き破る。その音が木霊となって返って来るよりも早く、イチヤは更に踏み込んで鋭く腰をひねる。
鎌を失った敵の脇腹に、左の拳が叩き込まれた。
その瞬間、轟音が再び山を揺らした。
蟷螂の上半身は爆発でもしたかのように四散し、もはや欠片も残っていない。残された腹部も、やがてさらさらと風化するように崩れ落ちて消えた。
イチヤは反響する木霊が収まるのを注意深く待った後、再び目を閉じて耳を澄ませ始めた。
VRMMO、アトラクタ・バーサス。現実の日本の街並みが忠実に再現されたゲーム。このゲームには、プレイヤーなら抑えておくべき基礎知識がいくつか存在する。そのうちの一つには、次のようなものがある。
『出現するモンスターは、エリア内にいるプレイヤーの平均レベルによって決定する』。
つまり高レベルのプレイヤーが多い地域には強い敵が、初心者が多い地域には弱い敵が出現するという、ゲームとしては当然とも言えるシステム。
ここで言う『エリア』というものが具体的にどの程度の広さなのかは諸説あるものの、この考え方はプレイヤー達にすぐに受け入れられた。
初めは混沌としていたフィールドにも、いつの間にか初心者のための区画・中堅プレイヤーが集まる区画などが形成され、効率的なレベル上げやフレンド作りが行われるようになった。
そういった住み分けは、プレイヤー全体のレベルが上がっていっても流動的に続いた。
トップ層が人の居ない新たな狩場を開拓し、しばらく経って第二陣・第三陣が流入して平均レベルが落ちると、トップ層がまた別のエリアに移る。
これを繰り返すことで最前線の狩場が更新され続けたのだが、それと同時に狩場は少しずつ都市部を離れていった。
そしてある日。一部のプレイヤーが自分達だけの狩場を求め、本格的に都市部を離れて辺境へと移った。他の上級プレイヤーもそれに追随するように姿を消した。
しかし辺境での戦闘は過酷であった。
大多数の者がその日のうちに狩りを諦め、来た道を引き返した。そして辺境と都市部の中間で、そのバランスを試行錯誤し始めた。
しかしそんな中、歩みを止めずに更なる秘境へと突き進んでゆくプレイヤーがいた。
こうしてアトラクタ・バーサスに、新たに二つの基礎知識が生まれた。
一つは、『強くなればなるほど、活動拠点は人里を離れてゆく』というもの。
快適な場所でエスカレーター式にレベルアップできるのは中堅程度まで。それ以降はそれなりの労力が必要になってくる。
そして二つ目。
『秘境は”超越者”の縄張り』。
”超越者”とは、プレイヤーとしての枠を超えた者に与えられる称号。これを冠される者はゲーム全体を見渡しても極僅かしか存在しない。
この深山幽谷を狩場とするイチヤも、その”超越者”の一人である。
しかしその輝かしい称号に反して、彼の表情からは余裕や慢心といったものは微塵も感じ取れない。
過酷なフィールドに身を置いているから、という部分も少なからずあるだろう。しかし、最大の理由はそれではない。
彼が見据えている敵は、まだ見ぬプレイヤー達。
明日に控えた大規模な戦いで、おそらくぶつかることになるであろう相手。
油断などできるはずがない。優位などありはしない。なぜなら敵もまた”超越者”なのだから。
その時、静かに耳を澄ませていたイチヤが新たなノイズ音を捉えた。
素早く振り向いて敵の姿を確認すると、彼は僅かに表情を曇らせた。
現れたのは、またもや二つ名付きネームドモンスター。滅多に出現しないはずの、トップクラスの強さを持つ強敵。ドロップアイテムが期待できるため普段であれば歓迎するところだが、連戦となればイチヤと言えども不安が残る。
先ほど出現したカマキリも、ノーダメージで倒したわけではない。
そのため彼は、使うことにした。
イチヤはそれまで堅く引き結んでいた口を僅かに開き――。
「……――、」
――彼だけに許されたスキルを、静かに発動させた。