その1
彼の頭の中には、3年前の光景がぐるぐると回っていた。
京都のとあるホテルの一室、豪華なソファーには、自分を含め6人の男が座っている。
「…そんなこと、できるわけないでしょう!」
「父さん…落ち着いて。体に障るよ」
彼は怒りに震えながら立ち上がった父を座らせた。
「出来る出来ないではないのです。やっていただきませんと」
6人の中で最年長と思われる男は、表情を変えずに言う。
「そもそも、法律に触れると知った上で、あのようなことをしたのはあなたですよ。
私は“厚意”でそれを黙っている。その代わり、少々仕事を手伝っていただきたいと言っているだけです」
「ですが…」
青ざめる父親の背中をさすりながら、彼は目の前の男に言った。
「父は引退を決めていたところです。私が代わりをいたしましょう」
「何を言う!」
「父さん。仕方ないよ」
「さすがは若先生。頭が柔軟でいらっしゃる」
「では、そちらに関してはそういうことで」仕立てのいいスーツ姿の男が、他の5人を見回した。
「もう我々には用はありませんよね。父さん、失礼しよう」
彼は父親を抱えるようにして部屋を出て行った。
「さてと、それでは詳しい話に入るとしましょう」
スーツ姿の男は、アタッシュケースを広げると資料を配った。3人の男がそれを熱心に読み始める。
「…要するに、半年たっても結果はまだ出ていないと」
着物姿の男が不服そうに資料をテーブルに投げ出した。
「まあ、教育というのはすぐに目に見える結果が出るものではございませんでして。ですが、皆さん、IQの上昇は見られます」
「我々が目指すのは、学力上昇ではありませんよ」
「IQ上昇は、目的達成の第一歩というか、きざしと考えてよろしいんですか?」前髪に一筋白髪を携えた男が尋ねる。
「さようです」
「だが、あちら側に劣っていては話にならない。投じた費用なりの効果をきちんと出していただきませんとね」
「先生は、どう思われますか? その手の子たちと長年触れ合われて来たご経験からすると」
聞かれた最年長の男はにこやかに答える。
「そうですねえ。我が御子たちは、同様の力を持つ相手との接触によって、芽が出ることが多いようです。“強い”子を中心にすえてみるのも手かもしれませんなあ」
「さすがは先生。何事も責めの姿勢ですね」着物姿の男が機嫌良さそうに言う。
「とはいえ、こちら側は現在、起爆剤になるほどの子どもは…」
「では、あちら側にその役目をしていただきましょうか。当然、あちら側の人材に関する資料もお持ちなんでしょう?」
聞かれたスーツ姿の男は、にこやかに答える。
「先生からご提供いただいた資料がありますので」
「専務は、その子たちを起爆剤にすることは可能だとお考えなんですか?」
「何事もやりようでしょう」
男は意味深な笑みを浮かべると、どこかへ電話をかけ始めた。
* * *
幼稚園から戻った紗由は、真里菜や奏子と一緒に、黄色やピンクのティッシュペーパーで、せっせと花を作っていた。
「ふう。このごろ、これ、おおいよねえ」真里菜が眉間にしわを寄せて花びらを広げる。
「せんしゅうも、そのまえもやったのにね」広げ終わった花を並べる奏子。
「かんげいされる人が、じぶんでもってくればいいのにねえ」
青蘭幼稚園では、この一ヶ月、保育士や管理事務職等の人間が何人も入れ替わり、その度に歓迎会を園児同席で催していたため、紗由たち園児にも、歓迎準備の“お仕事”が回ってきていたのだ。
年に1、2度ならば、園児たちも楽しんで参加できるが、毎週のように“お仕事”がある状況下では、紗由たちならずとも不満がつのって来ているのは事実だった。
当然、父母たちの間にも疑問視する声はあったが、今までやっていたことを中止するには、それなりの理由も必要であり、結局は“お仕事”をお持ち帰りして家族が手伝う有様だった。
「紗由、今日も“内職”なの?」
入ってきた龍が笑いをこらえるが、紗由は不機嫌そうに言い放つ。
「にいさまのぶんも、とっておいたから」
「はいはい」
「あの、奏子のぶんもありますから。えんりょしないでくださいね」
「う、うん…」
“りゅうくんへ”と書かれた紙袋を見た龍は、一歩後ずさりする。
「奏子ちゃん、よかったね。やさしいフィアンセで」
「うん!」
「翼も呼べば?」真里菜に対し、少し冷たく言う龍。
「だいじょうぶ。奏子ちゃんに、おもちかえりしてもらうから」
「ふーん…。翔太はいいよなあ。静岡だし」
「おうまさんに、持って行ってもらったよ。おとといのぶんは、さっき、おばあさまが持ってきてくれたの」
「へえ…」
静岡で家業を手伝っているのに、さらに“お仕事”をさせられる翔太を気の毒に思いつつ、龍は華織や風馬まで使い走りにしている紗由の度胸に、ある意味感心していた。
「それにしても、本当にこの1ヶ月多いね、人の入れ替えが。もうまとめてやればいいのに。小学部でも来月かなり人が動くって話だしなあ」
「奏子がてつだいますから!」
「ありがとう」
「ねえ、龍くん。青欄つぶれないよね?」真里菜が心配そうに聞く。
「つぶれる?」
「おじいちゃまが言ってたけど、じんじがゴタゴタするときはね、かいしゃがピンチなんだって」
「そうだね…潰れることはないと思うけど、ちょっと普通ではないよね。年度末でも学期末でもないんだし…」
奏子の分担分を作業しながら、龍は、青蘭内部での人の動きに、何かしら心に引っかかるものを感じていた。
* * *
何やら気難しげに紅茶のカップを両手で包み込む華織に、躍太郎は優しく声をかけた。
「珍しいな。考え事のために、わざわざ静岡から東京に来たのかい?」
「関西旅行のお土産を保ちゃんたちに持ってくるためよ」
「現地から送るだけで済んだだろうに」
「静岡は…今ちょっと騒がしい気がしたの」
「だから風馬たちも一緒に来させたのか。…まあ、東西が揉めると、富士の気配が険しくなるからなあ」
「それが関係しているのかしらね。やっぱり唐突だわ。個人的な事を“読んで”も構わないだなんて」
一昨日、夢で受け取った神の詔に華織は疑問を抱いていたのだ。
もちろん考え事は東京でする必要はないが、“何となく”東京のマンションにいたほうがいいような気がしたのも事実だった。
これまで“命”の立場にある者は、その力を個人的な事のために“意図的”に使うこと、すなわち個人の都合で未来を読むことは禁じられていた。
と言っても、普通の“命”は夢やヴィジョンで詔を与えられる場合がほとんどで、自分が知りたいことを読み取るのは、かなり力のある“命”でないとそもそも難しい。
華織は、それが出来る数少ない“命”の一人であるが、読み取りたいという気持ちが、神と世間に仕えるという気持ちからではなく、自分個人の都合から来るものだと感じた折には、絶対にしなかった。
やむなく個人的なことを読み取りたいと神に打診したのは、家族の危険に関することだけで、そういう意味では、華織はかなり自分に厳しく、“命”の掟に対して厳格なのだ。
「神様も気まぐれなんだろう」微笑む躍太郎。
「これまで数多くは頼んでいないけれど、それでも許されたのは極わずかなのよ」
「そうだな…」
躍太郎は紅茶のカップを手に取りながら、しばし目を閉じた。
「…もしもだよ、神様がおまえに協力を求めたいということを、言葉は悪いが…恩着せがましく“読んでもいい”という形で指示してきたのなら、そうまでしてでも、やってもらわねば困るということなんじゃないのかい?」
「だったら、これまで通り、ヴィジョンや夢で降ろしてくださればいいだけじゃなくて?」
「“読む”べきことの中心に、おまえがいるということなんじゃないかな」
「今までだって、私の周囲でいろんなことが起きてきたわ」
「あまり考えたくはないが、頻度と密度が違うのかもしれない。おまえからの距離も」
「身近な人間を巻き込む形でいろいろな事が起きるから、この際、個人的な事でもどんどん読んでいいよ、ということだとでも?」
「それも一つの考え方だ」
華織は、しばし黙り込んだ。
「わかったわ。個人的な好奇心として、まずは“読んでもいい”理由を読んでみるわ。躍太郎さんの言う通りだったら、どんどん使わせてもらうことにするわ」
「いい子だ」躍太郎が頷く。
「大切な人たちに何かあったら困るもの」
華織は躍太郎の肩にもたれかかり、静かに目を閉じた。
* * *
10分後、外出着に着替えて出かけようとする華織に、躍太郎はいささか困惑した様子で声を翔けた。
「華織。“読んだ”結果は、そんなに急を要するものだったのかい?」
「少しでも早いほうがいいわ」
「関係方面へ連絡をして相談してからのほうが、いいんじゃないのか? 今、羽龍がかなり反応していたようだが…」
「だから急いでるの。皆への連絡は、戻ったらするわ」
「…わかったよ。行ってらっしゃい」
「何、おっしゃってるの? 躍太郎さんも行くのよ」
「え?」
戸惑う躍太郎をよそに、華織は内線で車を手配するように使用人に言いつけると、ジュエリーボックスを開け、石をいくつか籐カゴバッグの中へしまい込んだ。
* * *
躍太郎は、サイオン・イマジカが入っているサイオンビルの前に広がる広場を車内から眺めながらつぶやいた。
「華織。急いで駆けつける場所がここなのかい? しかも、ちょうど社員の帰宅時間だぞ」
「まずは、ここ。最初に浮かんだ場所に似ているの。高岡さん、ここでいいわ。車は地下に回しておいてください。帰るときにお呼びしますから、ラウンジでお茶でもなさってて」
そう言うと華織は車を自分で降り、広場をビルの入り口方面へ向かってスタスタと歩き出した。
広場の中ほどまで来ると、バイクが2台止めてあり、その傍らでは、スーツ姿の男性二人がダンボール箱を開いていた。ビルから出てくる人々にチラシとボールペンを配る準備のようだ。
「これ、いただけるのかしら?」
華織が紺色のスーツの男性に声を掛けると、男性は笑顔で振り向いた。
「はい。お持ちください」
「自分で選ぶわ」
華織は箱の中を覗き込むと、半分ティッシュに包まれた1本のボールペンを取り出した。
「あ、それは…」
男性が“しまった”という顔になると、華織はボールペンをいったん箱に戻すが、やはりそれが気になるのか、再度取り出すと左手で高くかざして、ひらひらさせた。
「やっぱり、これがいいわ」
「あの、それは不良品かもしれなくて、避けておいたものなので、お取替えします」
だが言われた華織は、男の言葉など意に介さない。
「お手伝いしましょうか?」
「はい?」
「ねえ、あなた! お手伝いして差し上げましょうよ」華織が躍太郎を手招きして呼ぶ。
「あ、あの…」
紺色のスーツの男性は困惑しながら躍太郎に目をやると、何かに気づいたように一瞬目を見開き、茶色いスーツの男性に目線をやる。
「おや。以前、どこかでお会いしましたかね?」
「い、いえ…」
「ところで、許可は取ってあるんですか? ここ広場にはなっていますが、会社の私有地なんですよ」
「そうなんですか。すみません。知らなかったもので。すぐ片付けます」
茶色のスーツの男性がダンボールを片付けようとする。
「そちらのボールペンもいただいておきます」
頭を下げつつ、茶色のスーツ男性が華織からボールペンを取り上げようとするが、華織はヒラリと身を返し、躍太郎にボールペンを見せる。
「あなた、これ、すごいわ。こんなに小さいのに盗聴器なのよ」
「な、何をおっしゃってるんですか」
男が華織の手からボールペンを取り上げた。
「おい。引き上げるぞ」
紺色のスーツの男性が、茶色のスーツの男性に声を掛けた。
「あ、ああ」
「あら、もうおしまいですの?」
ダンボールをバイクに積んで、その場を去ろうとする紺色のスーツの男性に華織が声を掛けるが、男性は答えない。
「次回はもう少し工夫なさったほうがよろしくてよ!」
華織の声を掻き消すかのように、紺色のスーツの男性のバイクはその場を後にする。
そして、続いて茶色のスーツの男性も、あたふたとバイクにまたがり走り去った。
「間抜けな人たちねえ。こっちが本物なのに」
華織がカゴバッグからボールペンを取り出し、くるくると回した。
「おや。いつそんな手品を覚えたんだい?」
「簡単よ。左手でおとりの品を高く上げて注意を引く。その間に右手で本物をバッグに入れるだけ。いわゆるミスディレクションね。誠さんが教えてくれたわ」
「プロに教わったんなら確かだな」
「ねえ、それより、あの人たち、躍太郎さんのこと知ってたようだけど…」
躍太郎は近くのベンチに座ると、華織から受け取ったボールペンをまるでドラムスティックのように使い、一定のリズムでベンチを叩く。華織が“盗聴器”だと言ったので、こちらの声が漏れるのを用心してのことだ。
「二人の顔に見覚えはないんだが、襟についていた社章は調べればわかるはずだ。“T”の文字の周りに細かい模様があしらってあった」
「悪さをするのに名札を付けて来るって、おバカさんなのかしら。それとも、その会社に罪を着せるためのフェイク?」
「どちらにしろ、社章の会社と何らかのつながりがあるはずだ。あえて名を名乗り、挑戦状代わりにしたかったのかもしれない」
「彼ら、私のことは知らなかったようね。…そのボールペン、誰に渡すつもりだったのかしら?」
「私ではないだろうな。ここで待っていても会う確率は低い。イマジカの誰かだろうか」
「でも役員は普段、広場を通らずに地下の駐車場から車道に移動するし…」
「つまり賢児と哲也くんでもなさそうだな」
「…ねえ、あれ、進ちゃんだわ」
華織の目線を追うと、進が甲高い声で笑いながら、塩谷夫妻、弾、水木と一緒に歩いてくる。
「楽しそうだな。帰りに一杯、というところか」
「独身設定だと飲み会も多そうね」
「未那ちゃんと悠ちゃんにはすまないが、あれも半分仕事のうちだ」
「そうね。これ以上、進ちゃんの仕事を増やしたくはないんだけど、どうなることかしら…」華織の顔が少し曇る。
「あらあ! 躍太郎さまぁ!」
見ると、二人に気づいた進が、手を振っている。
躍太郎はセカンドバッグを持ち直すふりをしながら、ボールペンをベンチの横に勢いよく転がし、ボールペンはベンチから5メートルぐらいの場所で止まった。傍らでは華織が、進に応えて大きく手を振る。
「まあ、お二人ともご無沙汰しておりますぅ。奥様、相変わらず、お美しくていらっしゃいますのね。うらやましい」
「高橋さんこそ、相変わらず、お上手でいらっしゃるわ」微笑む華織。
「私、正直が取り得ですのよ」進が、まったりと微笑む。「で、今日はどうなさったんですか?」
「義弟の家に行く途中に通りかかってね。昔の職場を懐かしく思うなんていうのは、年なのかねえ」躍太郎が笑う。
「たまには遊びにいらして下さい。皆、励みになりますわ」
「ありがとう」
「ご無沙汰しております」塩谷と加奈子がそろって頭を下げた。
「ああ、久しぶりだねえ。元気でやってるかい?」
「はい。おかげさまで」
「躍太郎さま。こちらの二人は一昨年の入社組です」
「玲香さんと同期だね」
「はい。広報部の中山弾と申します」
「水木耕太郎です。高橋部長の下で働いています」
「そうか。二人とも頑張ってイマジカを押し上げてくれよ」
「はい」弾と水木が頭を下げる。
「皆さん、これからお食事かしら?」
「部長のおごりで一杯、ってやつです」水木がニコニコしながら答えた。
「まあ、うらやましい。楽しんでいらしてね」
「高橋くん、これ。足しにしてくれ」
躍太郎が財布から万札を2枚取り出し、ティッシュでくるんで進に渡す。
「まあ。恐れ入ります。…みんな、躍太郎さまからのお志よ!」
「ありがとうございます!」元気に礼をする一同。
「皆に美味しいものを食べさせてやれますわ。本当にありがとうございます。それでは失礼いたします」
進が深々と頭を下げると、一同も再度おじぎをして、その場を離れた。
「居酒屋から焼肉屋に変更ね、きっと」
「そんなことまで“読める”のかい?」笑う躍太郎。
「ああ見えて弾くん、お肉大好きだもの。おねだりするに決まってるわ」
外見は草食系インテリの弾だが、無類の肉好きなのだ。
「そうだな。あ…メールだ」
躍太郎がスマホを見ると、進からメールが届いていた。
“あのボールペンは何か危険なものですか?”
「目ざといな、進は」
“ここで配ろうとしていたものだ。華織が奪い取った。盗聴器かも。これから調べる”
そう返信すると、躍太郎は転がしたボールペンを拾い上げた。
華織はそれを受け取り、水晶の入った袋へ入れる。
「次の場所へ行く前に、ちょっと賢児の顔でも見ていくか」
「そうね。…あ、ちょっと待って」華織がベンチに戻る。
「どうしたんだい」
「せっかくだから、送ってみようかしら」
「何をだい?」
「ちょっと体験させてあげようと思って」うふふと笑う華織。
「“弐之命”体験なら、食事時には酷かもしれないなあ」躍太郎が苦笑する。
「私の顔を知らなくても、“命”について知りたがる人は多いわ。イマジカのことをよく知らなくても、西園寺のことを知りたがる人が多いのと同じ。特別サービスよ」
「そうだな。牽制球のひとつも投げておくほうがいいかもしれん」
躍太郎は微笑むと、楽しそうに華織を見つめた。
* * *
「…わかった。こっちも引き上げる」
イマジカビルの裏手に停まっていたワゴン車の運転席にいた男は、不機嫌そうに電話を切ると後部座席の男に告げる。
「作戦は中断だ。俺たちも戻るぞ」
「ひぃいいいっ!」
後部座席にいた男が、突然悲鳴を上げ、ヘッドフォンをはずして、ソファに投げつけた。
「どうした!」
運転手が振り返り聞くが、後部座席の男は目を瞑り震えるばかりだ。
「おい! 何か聞こえたのか?」
「…何なんだ…今のは…」
「だから、どうした!」
「地獄…なのか…?」
「おい、大丈夫か?」
運転手はいったん車を降り、後部座席に乗り込む。
「しっかりしろよ」
そう言いながら、ヘッドフォンをはめた運転手だが、次の瞬間、聞こえてくる音に怪訝そうな顔になる。
「何だ、この呻き声のようなものは…。うわあぁあ!」
運転手もヘッドフォンを投げ出し、真っ青な顔でうずくまりながら、後部座席にあった機械のスイッチを切った。
「…どういうことだ。今聞こえたのは、いや、今見えたのは…」 息も絶え絶えの様子で隣の席の男に話しかける運転手。
「おまえも…見たのか」
男が運転手のほうを、そーっと振り返った時、スイッチが切れたはずのヘッドフォンから再び音が流れてきた。
* * *
「賢ちゃん、ごきげんよう」
「伯母さん! あれ、今日、東京の予定だったっけ?」
「あ。おばあさまだ!」
賢児の椅子の陰から、紗由がひょこっと顔を出す。
「紗由! 何してるの、あなた」
「おしごとです」
「紗由がイベントをしたいって言うんだ」苦笑する賢児。
「また、ミコト姫をやるのかい?」躍太郎が紗由の顔を覗き込む。
「うーん。そこなんですよねえ」
腕組みをする紗由に向かって、華織も腕組みをする。
「ミコト姫をやりたいんじゃなくて、イベントをやりたいのね?」
「うーん。そこなんですよねえ」
「理由はわからないけど、イベントをやったほうがいいような気がするのね?」
「悠斗くんが、おまつりがあるって言うから…」華織の耳に囁く紗由。
「いつ言ったの?」
「きのう」
「そう…」華織は人差し指を口に当てて考え込んだ。
「あ、そうだ。おばあさま。あした、おうちで、たんていじむしょのひみつかいぎがありますから、来てくださいね」
「え?」
「ちゃんと、きいておいてくださいね」
「…聞いておく?」
「おばあさまには、ぜんぶほうこくしないといけないでしょう?」
「ええ。全部報告するようにと言いました」
「だからです」ニコニコ顔の紗由。
「えーと…明日のメンバーは?」
「紗由と、まりりんと、奏子ちゃんと、充くんと、恭介くん」
「そう。で、会議は何時からかしら」
「2じからです。3じになったら、おやつです」
「そう。1時間も会議なの。大変ねえ」
どうせ2時からおやつなのだろうと思いながら、淡々と言う華織。
「おやつは、有川のおじさまにおねがいしました。レザンのチーズケーキです」
「あら。それって、おばあさまの分もあるのかしら?」途端に目を輝かせる華織。
「もちろんです」
「ありがとう、紗由。2時にうかがうわね」
「西園寺家の女性って、何気に全員食いしん坊だよな」賢児が躍太郎にささやく。
「彼女らを食わせるために、男どもは頑張らないといけないわけだ」
「同じこと、翔太が言ってた」
「頼れるなあ、翔太くんは」
「紗由のおめがねに適った男だからね」笑う賢児。
「ところで賢児。イベントはどうするんだ?」
「定期イベントの企画をしないといけない時期だからね。紗由が自分から出てきたことだし、意見を聞いておこうと思ったんだ。詳細は週明け、哲ちゃんに相談してみるよ」
「そうか。内容が決まったら教えてくれ」
「わかった」
「そうだ、さっきな…」言いかけてやめる躍太郎。
「ん? 何?」
「あ…いや、何でもない」
進と玲香の同期たちの飲み会のことを言いかけて、躍太郎は思いとどまった。
玲香が知らないのではと思ったのだが、考えてみれば、知っていたとしても、乳児の子育て中に玲香が飲み会に行くとは考えづらい。気を遣った玲香が、彼らの誘いを断ったと考えるほうが自然だ。
「何だよ。変なの」
「玲香さんは家かい?」
「うん。今日は会議で来てたけど、3時で帰った」
「大変だな。双子の世話とお前の世話と仕事で」
「うーん。頑張りすぎるから、ちょっと心配なんだ。たまには友達と遊びに出かけてこいって言うんだけど、一人だとあんまり外に出ない。
遠山さんにも、連れ出してくれってお願いしてるんだけどね」
「遠山さんなら、さっき会社の前で会ったぞ。同期で飲み会らしい」
「どこの店か、わかる?」
「いや、そこまでは…。あ、でも高橋くんも一緒だったから、彼に確認はできるよ」
「俺が電話しようか」
「社長じきじきだと業務命令みたいじゃないか」
進に電話をかける躍太郎。
「高橋くんかい? お楽しみのところ、すまないね。西園寺だよ。つかぬことを聞くんだが、玲香さんが合流する予定はあるのかい?
…ああ、そう。でも、今から彼女が行っても構わないよな?…いや、たまには彼女もと思って。賢児も息抜きさせてやりたいって言うもんだから。
…うん、お店を教えてくれるかい。…寿幸苑だね。あそこは美味しいねえ。うん。ありがとう。じゃあ」
「寿幸苑て、4丁目交差点のだよね」
「ああ、そうだ。電話して玲香さんを店に呼び出せ。急用だからすぐに来いって。子供たちは、私と華織がすぐ家に行くから、面倒は任せろと言え」
「伯父さん…」
「ほら、電話」
「うん。ありがとう」
賢児はニッコリ笑うと、スマホを取り出した。
* * *
急用だからと賢児に呼び出された玲香は、双子たちを和江に頼むと、慌てて指定先の寿幸苑に向かった。
“どうしたのかしら、いったい。賢児さまったら、詳しいこと何も言わないし…。会社ならともかく、焼肉屋に呼び出しって…?”
「いらっしゃいませ!」
店内に入ると、店員が一斉に挨拶する。
「あの…待ち合わせなんですが。えーと、背の高い男性で…」
そう言いながら、玲香は辺りを見回すが、半個室のブースが並ぶ店なので、一見しただけでは客の顔まではわからない。
「いらっしゃい、玲ちゃん!」進が姿を現す。
「お待ち合わせのお客様がおいでです」
背の高い男性と言われたので、店員は進がその相手だと思ったようだ。
「進子ちゃん…」
「賢児さまのご指示でしょう? こっち、こっち」
進の案内で着いた席では、塩谷たちが焼肉を頬張っていた。
「おう、高橋!」
「玲ちゃん、ここ。座って、座って」
「飲み物どうする? ノンアルコールにしておく?」
「今日は前社長のおごりだから安心してね」
「…賢児さまは?」
「躍太郎さまご夫妻と一緒に、今頃お宅にお戻りだと思うけど」進がニッコリ笑う。
「どういうこと…?」
「優しいダンナさまでうらやましいわ、玲ちゃん」加奈子が満面の笑みになる。
「息抜きのプレゼントってことだよ」
塩谷が言うと、玲香もようやく事態を飲み込めたようだった。
「ほら。せっかくのご厚意なんだから」
「う、うん…」
賢児に対する感謝の気持ちと、久しぶりになる皆との飲み会ということで、玲香はどういう顔をしていいかわからず、少しうつむき加減に席に着く。
「ねえねえ、双子ちゃんたちの写真ないの? 俺、この前、部長たちが遊びに行った時、姉貴の結婚式で行けなかったし」
水木が言うと、弾も身を乗り出す。
「そうそう。僕も出張中だったんだよね」
「うーん、どうしようかなあ」
玲香がもったいぶったようにスマホを取り出す。
「勝手に見ちゃうわよぉ」
進がスマホを取り上げるようなそぶりをすると、玲香は笑い転げながら、双子たちの写真を、ちょっぴり自慢げに皆に見せた。
* * *
「皆、今日はどうもありがとう」
店の外に出た一同に、玲香が頭を下げた。
「あーら。お礼なら賢児さまに言ってちょうだい。スポンサーは躍太郎さまだし、私たちは焼肉食べただけだもの」
進の言葉に皆が頷く。
「たまには顔出せよ。高橋がいないと、同期会が半端な感じになっちゃうじゃん」塩谷が笑う。
「あ、ほら。お迎えの車、来たわよ。玲ちゃん、乗って」
「う、うん。それじゃあ、皆、またね。今日は本当にありがとう。楽しかったわ」
「気をつけてね!」
玲香が車に乗り込むと、加奈子が大きく手を振った。
玲香もそれに応えるように、車が角を曲がるまで手を振り続けていた。
“ふう…。楽しかった。久しぶりに、はしゃいじゃったかな…。賢児さまと子どもたち、どうしてるかしら…”
車が信号で止まり、何気なく窓の外に目をやった玲香は、目の前の横断歩道を渡ってくる茶色いスーツの男性に目が留まった。足元がおぼつかない様子だ。
「あら、あの人…」
「お知り合いですか?」運転手の高岡が尋ねる。
「知り合いに似てるような気がしたんですけど…」
「クラクション、鳴らしましょうか?」
「…いえ、大丈夫です。知り合いと言っても、以前内定をいただいた会社の人事課長さんなので、個人的なお付き合いが現在あるわけではないですし。それに関西の方ですから、見間違いかもしれません」
「さようですか。でも危ないですねえ。酔っ払っているのかなあ。週末はけっこういるんですよ、早い時間からフラフラしている人が。運転するほうにしてみると、あまり心臓によくありません」
「大変ですね。ご迷惑おかけしないように、私も気をつけたいですわ」
「玲香さまはお強くていらっしゃるから、大丈夫でしょう」
「まあ、高岡さんたら」
玲香は軽やかに笑うが、表の男性からまだ目が離せずにいた。
“あ。あのほくろ…やっぱり多治見総研の先山課長…?”
男性は横断歩道を何とか渡りきると、向かいの公園の繁みへと姿を消してしまったが、玲香は何かひっかかるものを感じていた。
* * *
翌日、華織は探偵事務所の秘密会議に出向く前に、気になる場所があるからと言い、車でとある場所に向かった。
「あそこよ」華織は車を停めさせ、3階建ての建物を指差した。
「昨日本当は、ここへ来るつもりだったのかい?」
躍太郎が尋ねると、華織がうなづいた。
「ええ、そうよ」
「…特に不審な点はないように思えるがね。それにここは、東京駅からマンションへ行く途中、何度も通ってるじゃないか」
「ええ。でもね、昨日“読んだ”時に、この建物と、中にいるらしい若いお嬢さんの姿が見えたのよ」
「知っている顔だったのかい?」
「いいえ。ただ、衣文掛けのお着物の紋が、誠さんちの御紋の中心がクルンと上に向いている形だったの」
「一条藤の中心がクルンと上に…九条藤か?」
「そう。しかも“命”の気配を感じたわ」
「まさか九条家の長女…?」
「まだ直接お会いしたことはないけど、年齢から言っても、九条清子さんだと思うわ」
「確か彼女は、一年くらい前に、現“命”の父親と仲たがいして家を出たという話だが」
「誠さんによれば、行方知れずのままらしいわ」
一条誠は九条家の遠縁に当たる。
「もしそうなら、他者に悟られぬよう、空間がかなり強く封じられているな。彼女かどうか、確認しに行くつもりかい?」
「…今日はやめておくわ。遅刻すると紗由に怒られちゃうし」華織はその建物をじっと見つめた。「それに、向こうから近づいてくるような気もするから」
華織は車を出すように言うと、静かに目を閉じた。
* * *
「それでは、西園寺保たんていじむしょの、きんきゅうひみつかいぎをはじめます!」
「はい!」
西園寺家のリビングで、ジュースとお菓子を前にして、紗由が事務所のメンバーに宣言すると、メンバーは元気に返事をした。
そして、少し離れた窓際にある丸テーブルが置かれたスペースでは、東京を訪れていた華織夫妻と保が紅茶をすすっていた。
「私たちがいるのに“秘密会議”になるんだろうか?」
保が素朴な疑問を口にすると、躍太郎が苦笑いしながら答える。
「秘密会議の内容は必ず報告するようにと華織が言ったからだよ」
「“だったら最初から聞いておけ”ということのようよ」少々不機嫌そうな華織。
「時間の無駄が省けるし、確実に情報が伝わる優れたシステムだ」思わず笑う保。
「保ちゃんが分身の術でも使えれば、国政にも使えるシステムだわね」
「分身の術か。“命”には、そういう力を使える者はいないのかい? ドラえもんの“どこでもドアー”みたいなのとか」
「昔の文献には、瞬間移動を指すと思われる記述も残っているようだけど…現在の“命”には、いないと思うわ」肩をすくめる華織。
「“命”の力というのには、様々なものがあるよね。今ある種類で事足りているということなんだろうか?」
保の言葉に、華織は少し眉間にしわを寄せた。
「ん? 何かまずいことでも言ったかい、姉さん」
「最近、よく話題に上るんだよ、それが」躍太郎が答える。
「それ?」
「ああ。事足りていない部分が、何か別の形で補われているのかなと思ってね」
「他にも力の系統があるということかい?」
「そうね。現に、別の力の系統のひとつは、わかっているの。でも、それだけじゃないような…何か引っかかるのよ…」
「私の人材投資事業のほうで、能力開発に関する研究をしているチームがあるんだが、そこから先日受けたデータによれば、紗由たちのような子どもに関する報告…まあ、彼らほどの力ではないようだが、超常的な力を持つ子どもの報告が、この3年ちょっとで急激に増えているんだ」
躍太郎は手広く事業を手がけているが、そのひとつに学者や芸術家の人材育成のための投資事業というのがあるのだ。一種の人材バンクと言ったらいいかもしれない。
「3年…四辻が亡くなった前後か」保も眉間にしわを寄せる。
「そうだ。もう少し詳しく調べてみなければと思っているがね」
「その資料、私も見せてもらっていいかな、義兄さん」
「ああ、もちろん。回しておくよ」
3人は改めて、探偵事務所の秘密会議に耳を傾けた。
「えー、それで、おあつまりいただいたのはですね、あやしい人がみつかったからです。恭介くん、ほうこくおねがいします」
「はい!」
恭介は立ち上がると、一枚の紙を皆に示した。
「これは、ママのところにきた“きょういくかんけい”の人がおいていったものです。ぼくに、えいごきょうしつに行くようにと言いました」
「恭介どのは、えいごをはなせるのに、あやしいでござるな…」
「ちがうよ。くつしたがあやしかったの」
「くつした?」一同が首をかしげた。
「スーツきてたのに、ようちえんにはいていくような、白いくつしただった」
「いくつぐらいの人?」真里菜が尋ねる。
「50ぐらい」
「あやしいわ!」真里菜も立ち上がり、腕組みをする。
「そうなの?」真里菜を見上げる奏子。
「白いくつしたはね、カジュアルなおしゃれにつかうものなの」真里菜が得意げに説明する。「スーツきてはたらく50のおじさんは、そんなくつした、はいたらだめなの。はいてないのは、もっとだめだけど」
「わあ、さすがはまりりんだね。おしゃれのことなら、何でも知ってるねえ」奏子が何度も頷く。
「“きょういくかんけい”の人なのに、そんなことも知らないなんて、たしかにあやしい…」紗由も腕組みする。
「しかも、だいじんの家に行くのに、そんなかっこうするなんて、みょうでござるなあ」
「何かさぐりに来たのかもしれないですね」紗由が恭介を見つめる。「あやしいきかいは、ありませんでしたか」
「しらべてみたけど、わからなかった」
「へんなおじさんがママにわたしたのは、その紙だけですか?」
「おりがみセットもくれた」恭介は鞄をかきまわしてビニール袋を探すと、パンパンと袋を叩きながらテーブルに出した。「これだよ。コウモリとチョウチョのみほんと、おってない、きれいなおりがみ」
「うわあ。ほんものみたいに、じょうずにおれてるねえ。コウモリさんは、ずかんしか、みたことないけど…」
奏子がビニール袋のジッパーを開けて中身を出そうとする。
“この気配は…あの人たちの…?”
華織が急ぎ駆け寄り、奏子の手を握った。
「奏子ちゃん。触らないほうがいいわ。皆もね」
「は、はい…」ぽかんとして華織を見つめる奏子。
「おばあさま、これ、あぶないんですか?」
紗由が難しい顔になると、奏子だけでなく、真里菜や恭介も、袋から体を遠ざけるように座りなおした。
「ぼ、ぼく、きのう、さわっちゃった…」泣きそうになる恭介。
「何か体調に変化はあったかしら?」
「…ないです」
「お家の方で他に触ったのはどなた?」
「ママとおじいちゃん」
「二人にも変化はないのね?」
「はい」
「わかりました。恭介くんは心配要りません。ただ、他の皆がそうかどうかはわからないので確認してきます。10分ほどで戻りますから」
華織はそう言うと、袋を持ってリビングをすたすたと出て行ってしまった。躍太郎も素早く後に続く。
「姉さん!」
保も二人を追いかけるように出て行ってしまったため、リビングには子どもたちだけが取り残された。
* * *
「どうしたんだい、姉さん」
「実験できる所へ行くわ」
袋をぶらぶらさせながら、シニカルな笑みを浮かべる華織を見て、保は袋の中身には何らかの電波が届いている盗聴器の類かもしれないと理解し、それ以上何も言わず、華織の後に従った。
保の書斎に入り、書棚の奥の隠しボタンを押すと、書棚の一部が横に開き、奥の部屋への入り口が現れた。5メートルほどある廊下の先にはドアがあり、華織が慣れた様子で壁の一部を押すとドアが開いた。
そして部屋にある棚から40センチ四方ほどの透明なケースを一つ取り出すと、先ほどのビニール袋をそのまま箱の中へと入れ、蓋をした。
「折り紙の中に盗聴器が仕込んであるのかい? 昨日もあったんだろ?」保が蓋をされたケースを見つめる。
「華織。ジャマー…電波妨害装置を使わないということは、ちょっと違う感じがするということなのかい?」
「盗聴器だとは思うんだけど、念のため確認したいの。もっとやっかいなものだと困るから」
「やっかいって言うと?」保が怪訝な顔になる。
「たとえば、陰陽道で言うところの式神」
「式神?」
「そう。ただの紙切れに見えて、実は見張りをしたり、通信したり、時には攻撃もするから侮れないわ。他の能力者の系統では使うと聞いたことがあるの」
「つまり今回の場合、恭介くんを見張ったり、攻撃するためのものなのかい?」
「狙いが恭介くんかどうかは、わからないけどね」
「どうやって、それを見極めるんだい」
「このケースに入れます」
「このケースは何なんだい?」
「お札ボックスとでも言ったらいいかしらね。この子たちが敵方のものだったら、居心地が悪くなってくるはず。もう少し、待ってて」
華織に言われ、ケースを改めて見つめる保。
「それにしても、コウモリとチョウという組み合わせが気になるな」躍太郎もケースに目をやる。
「そうね。それにこのコウモリ、好みじゃないわ。あんまり可愛くないし」
「コウモリだと怖がる子もいるだろうしな。涼一も子どもの頃、嫌いだったろ」躍太郎が保を見る。
「ああ。血を吸われるから嫌だと言ってた。母親を介して子どもに渡すグッズなら、もっと可愛い動植物や昆虫が無難だな」
「…保ちゃん、それかも」
「それ?」
「コウモリは誰かの血が欲しかったのかも」
「まさか、折り紙が変身して有川一家の血を採取するとでもいうのかい? そんな漫画みたいなこと…」
笑いながら華織を見る保に、華織は表情を買えずにケースの一角を指差す。
「それがそうでもないんじゃないかしら…ほら」
保が目をやると、コウモリの折り紙が尖った羽を突き出すようにしている。ビニール袋は破れそうなくらいに一部だけ針のように伸びた状態だ。
「これは…。さっきはこんな形状じゃなかったよな。遠隔で操作して血液を採取できるとでも?」
「かもね。こっちのチョウのほうも見て」
華織が示す先には、羽を閉じているチョウの姿があった。
「さっきは…羽が開いていたよな?」
「微弱な電波を感じるわ」華織は棚から別のケースを取り出すと、折り紙のビニール袋をそちらに移し、蓋をした。
「でも躍太郎さん、この子たち、ちょっと妙ね。昨日のは、ありがちなタイプだったけど、これは違うわ」
「ああ、そうだな」
「ん? どういうことだい?」
「昨日のボールペンは普通の盗聴器だったわ。秋葉原なんかでも簡単に買えるはずよ。今日のこの子たちは、チョウのほうは明らかに通信機器だけど、私たちの会話を送った様子はない。電波もかなり微弱だったわ。紗由たちが気づかないぐらい」
「通信時間が決まっているとか? それとも何か条件がそろわないと送れないんだろうか?」
「そうかも。最近の技術はすごいのねえ」まるで他人事のように言う華織。
「コウモリのほうは、血液を採取した後に人間が回収しにくる予定だったんだろうね」
「ずいぶんと危ない橋を渡るものだな。二度も有川の家に行くというのは、足もつきやすいはずだが」
「橋を堂々と渡れるような、怪しまれない仕組みがあるということだな」躍太郎がケースを撫でた。
「リビングに一旦戻りましょう。紗由たちに説明しないと。急に部屋を出て来てしまったから、遅くなると怖がるかもしれないわ」
華織は二人の返事を待つでもなく、足早に部屋を出た。
* * *
華織たちがリビングに戻ると、紗由たちは窓際で並び声を出しながら左右に動いていた。
「ヘヘヘヘィ! ヘヘヘヘィ! ヘヘヘィ、ヘヘヘィ、ヘヘヘヘィ!」
「ふう。じょうずにできたね、ヘイヘイおどり」
紗由は満足げに言うと、テーブルに戻り、ジュースをごくごくと飲んだ。
「恭介くん、じょうずになったねえ」
奏子が言うと、恭介は自慢げな顔になる。
「おじいちゃんと、れんしゅうしてるから」
「おじいちゃん…」
紗由が上を向いて考え込むと、真里菜、奏子、充も同様に上を向き、その様子を見ていた華織たちも思わず釣られてしまった。
「建造さん、あれを踊っているのね…」
「いい、おじいちゃんです」
紗由が頷くと、一同それに倣うように頷いた。
「恭介くんになにかあったら、おじいちゃんがしんぱいしますからね。たんていじむしょで、あやしい人のなぞをさぐりましょう!」
「はい!」
「心配要らなかったようね」華織が微笑む。
「“ヘイヘイ踊り”は、すごく頑張りたい時に踊るらしいんだよ」
「戦いに向けた鼓舞か。頼もしいな」
「紗由、お待たせ」
「おばあさま! どうでしたか?」
「今すぐどうこうというものではないけど…念のため、私のほうで預からせてもらいます。ちょっぴり悪い子たちかもしれないから。恭介くん、いいかしら?」
「は、はい」
「もしもママに聞かれたら、私にとられちゃったとおっしゃい」小さく笑う華織。「それと、教育関係の人がまた来たら、その人、きっとあの折り紙を持って行きたがるはず。その場合も私のところにあるとおっしゃいね」
「でも、そうしたら、きょういくかんけいのおじさん、“命”さまのところに来ます」
「かまわなくてよ。ちゃんと、おもてなしして差し上げるわ」
「おもてなしは、ケーキがでますか?」紗由が嬉しそうに華織を見上げる。
「…出ません」
「なあんだ…」がっかりする紗由。
「それで、皆さんに確認しておきたいことがあります。今回の教育関係のおじさんのように、皆に習い事を勧めたりする人、最近いたかしら?」
華織が尋ねると、紗由たちは一斉に首を横に振る。
「そう。…じゃあ、皆が今、どんな習い事をしているか教えてください。恭介くんは、どうかしら?」
「えーと、ぼくは、はんとしまえに、にほんにきてから、シンクロとピアノと、しょどうをならってます。シンクロは5にんでいっしょです。ピアノはママのおねえさんが、おんがくきょうしつをしていて、そこに行ってます。しょどうは、おばあさまにならってます」
「お話が整理されていて、とってもわかりやすいわね、恭介くん」
華織が微笑むと、恭介もうれしそうに笑う。
「シンクロは大地くんの行ってるスイミングの先生よね。じゃあ、次は充くん」
「はい。せっしゃは、トランペットとシンクロとえいかいわをならっています。トランペットは、龍どのが行っているきょうしつです。しょうかいしてもらいました。えいかいわは、パパのともだちのアメリカじんからならってます」
「充くんも、よくできました」
にーっと笑いながら敬礼する充。
「まりりんは、シンクロとフルートとフラダンスです。えいかいわは、りおちゃんがおしえてくれます。フルートのせんせいは、おばあちゃまのおともだちです。“ぎり”で、はいりました。
フラダンスはちょうないかいの、やくいんさんがせんせいです。これも、さいしょは“ぎり”でしたけど、ママといっしょだし、とってもたのしいです」
「“義理”は大変よねえ」
「はい。でも、かいしゃのためですから」
難しい顔で頷く真里菜を見て、大人たちが思わず微笑む。
「あの…奏子は、シンクロと、にほんぶようと、おことをならってます。にほんぶようは、おばあちゃまのいもうとが、せんせいです。
おことは、おじいちゃまのおねえさんが、せんせいです。
あとは…おばあちゃまが、おしゅうじをおしえてくれま…した」
「今は教えてくださらないの? まあ、お忙しいですものね、絢子先生は」
「えーと、一ヶ月ぐらいまえから、おじいちゃまのおともだちに、ならってます。おにいちゃまもいっしょなので、せんもんかのせんせいになったんです」
「そうだったの。わかりました」
「紗由は、えいかいわを、とうさまと、けんちゃんから、ときどきならってます。あとは、シンクロとピアノとバレエです。ピアノは、にいさまとおなじおんがくきょうしつです。バレエは、せいらんようちえんの子が、よく行くところです」
「バレエは確か、幼稚園に入る前から習ってたわよね」
「はい。おじゅけんのしょるいに、なにかかくものが、あったほうがいいからって、とうさまが言いました」
「奏子も言われました。しょどうはそのとき、はじめました」
「まりりんも! フランスご、ならいました!…ようちえん行ったら、いそがしいので、すぐやめました」
「皆、大変なのねえ」
「みんな、がんばってます!」紗由が元気に応えた。
「そうね。頑張っている皆にお願いがあるんだけど、聞いてもらえるかしら?」
「はい!」
「今まで以上に、一般人の前で力を使うことは避けてください。それから、やたらとお家のことを知りたがる人、私たちの側の人間のことを知りたがる人がいたら、私にきちんと報告してください。…まずは、紗由に報告してくれればいいです。所長の紗由から、私のほうに報告してもらいます」
「わかりました。悠斗くんにもつたえておきます」
「悠斗くん、きょう、どうぶつえんなんだよね。たのしくしてるかなあ」
「おさるに、キィーッていわれて、ないてるかもね」真里菜が奏子に答える。
「悠斗くん、なきむしだからなあ」
「恭介くんほどじゃないけどね」
真里菜が言うと、みるみる目に涙がたまる恭介。
「未那どのにだっこされたら、せっしゃもなきまする…」うっとりした顔でつぶやく充。
「それは、いみがちがいますね」キッと充を見る紗由。
「そうそう。悠斗くんのパパのことは、くれぐれも他の人にはナイショよ。よくって?」
「わかってます、おばあさま。トップシークレットですから」
「あ…それから、もう一つお願いがあるの」
華織は微笑むと、バッグを開けて、小さな袋を取り出し、紗由に渡した。
* * *
「こっちが偵察してるのを余裕で観察か。さすがは西園寺華織だなあ」
「彼女の力を考えれば想定内なのでは」前髪に一筋白髪を携えた男が、頭を下げたまま述べる。
「まあ、そうだな。だが、可愛い動物たちが息絶えたかと思うと、ちょっとブルーになるな」折り紙を掌で転がす男。「できれば、あちらの子どもたちを直に確認したかったんだがな。あの子を呼べれば、呼び水になるかと思ったんだが…」
「それは難しいのではないでしょうか。彼女は、こちらの動向をつかんでいると考えるのが妥当です」
「なあ、何が違うんだろうな? どうしてあんなに出てくるんだ」
「私にはわかりかねます」
「彼女の目に入れても痛くないほど可愛い孫…優れた力の持ち主を、解剖して調べてみたいものだよ」
「子どもに手を出すのは、今回の趣旨からはずれます」白髪の男が言う。
「物の喩えだよ。何だ。疑ってるのか?」
「最終目的は西園寺家に太刀打ちすることなのですか?」白髪の男が見上げる。
「…みね打ちぐらいはしてみたいな」
「その前に、あちらのほうを再度つついてみたほうがよろしいのでは。もう3年。報告が曖昧すぎます」
「そうだな。あるいは動かぬ駒もつつく必要がありそうだ」
男は高笑いすると、部屋を出て行った。
* * *




