3.夢と現
夕方、菜々は親の手伝いで買い物に行く。
そろそろ暖かくなってきたが、羽織るものがないとまだ少し肌寒い陽気だ。スーパーを出るときに、手にしていた薄手のカーディガンを着込む。
夕焼けが綺麗だった。
淡いオレンジの色彩が段々と濃い夜の薄闇を纏っていく。
鴉が鳴く。
雑踏には帰宅を急ぐ子どもたちの甲高い笑い声が響いた。
「菜々ちゃん」
いくつもの人の声に紛れて、聞き慣れた呼びかけがあった。
菜々は笑って振り返る。
「翔ちゃん」
「買い物? 菜々ちゃん、荷物持とうか?」
「本当? ありがと」
声変わり前の無邪気な少年の親切に、菜々は嬉しくなって礼を言う。
「お釣りお小遣いだから、ジュース買う?」
「やった」
翔は単純に喜ぶ。
共働きの彼の家族は忙しく、近所で面倒見の良かった菜々が小さい頃からよく遊んであげた。さすがに小学校も中学年にもなれば男友達とつるむ方が楽しくなったのか、最近は滅多に家まで遊びに来ることはなくなったけれど、気心の知れた間柄には違いない。
自動販売機で望みの缶ジュースを購入すると、二人は並んで帰路を進む。
面白おかしく学校での出来事を話す翔に、菜々はおっとりと笑いかける。
大通り沿いの道は特に見通しが悪い訳ではなかったが、その日は異常が起きた。
居眠り運転なのか、歩道ぎりぎりに寄ってスピードを出すトラックがあった。
ガリガリとガードレールをこそぐ音に気がついた菜々が振り返る。
すぐ目の前にヘッドライトの灯が迫っていた。
「翔ちゃん、危ない!」
+ + +
衝撃に驚いてリラははっと目を醒ます。
(ゆ……夢?)
汗をぐっしょりとかいていた。泣き疲れて、侍女のお仕着せ服のまま眠ってしまったらしい。既に窓の外は夜の帳が下りていた。
リラはほっと息を吐く。
夢だったのだ。
前世である菜々が死んだときの、出来の悪い悪夢だった。
翔の懺悔に触発されて思い出したのだろうか。はたまた思い込みで作った虚像の光景か。
どちらにしろ、リラは安堵する。
(翔ちゃんが、生きていて良かった)
現在の勇者の出で立ちからは程遠い、幼い日の少年の姿を思い浮かべる。
自分が死んだのは残念だったけれど、もし大切な幼馴染を守れたのであれば、それは菜々の生き様の誇りだ。翔が気に病む必要はない。
同時に、15年経った今も菜々が住まう彼の胸中を知り、罪悪感と等しく強く、仄暗い満足感を覚える。菜々でないリラこそが強烈な独占欲を満たされ、後ろめたい愉悦を感じている。
最低だと思った。
(忘れられていないことが嬉しいなんて)
傷つき続ける翔の心を蔑ろにして喜ぶ自分はどうかしている。
罰せられるべきは己だ。
死してなお記憶を引きずったまま生まれ変わったのは、決して他者の痛みを踏み台に幸福を得るためではないだろうに。
リラは再び涙を眦に溜めた。
泣き伏したリラが起き上がった頃には、半刻ほど時計の針が進んでいた。
何やら部屋の外が騒がしいような気がした。
「……?」
部屋の扉を開けて初めて、王城内の者が皆慌てふためいていることに気づく。
ざわめく空気に驚いて、リラは様子を窺った。魔物だ、という叫び声が廊下中に響いている。
走り回る兵士の一人を掴まえて話を聞くと、事態はすぐに判明した。
衛兵の護りを突破して、王城内に何匹かの強力な魔物が侵入したらしい。勇者が現れてからは滅多になかった危機に、城は混乱している。
幸いにも王と王妃は不在だった。祭典の準備のため神殿に赴き、城を留守にしていたのだ。
「でも、ヴィオレッタ王女殿下が」
幼い姫君は城内にいる。
懸念を口にすると、兵士は心配ないと断言した。
「勇者様が護ってくださる。さあ、君も早く避難するんだ」
「……勇者様が」
不意に、嫌な予感がした。
気がついたときには、リラは兵士の制止も聞かず走り出していた。
逃げ惑う侍女や官の流れに逆らい、リラは悪寒のする方へ歩を進める。
人間の本能的な警戒心が魔物を厭い、身を震えさせた。
勇者の力を得たとはいえ、翔は常にこんな恐怖と戦ってきたのか。それを……許されない罰だと、断罪と受け入れるのか。
(ごめんね、翔ちゃん)
謝っても何の救いにもならないだろう。魔物のいる戦場に行っても何の役にも立たないのと同程度に、リラは無力だ。
理解しているのに何かに憑りつかれたように、足は真っ直ぐに動く。
とにかく翔の元に辿り着きたかった。
やがて廊下を抜け大広間に出ると、リラは愕然として息を止める。
蹲る王女とお付きの女官たち、
血まみれで倒れる幾人もの兵士、
四方から獲物を狙う魔物、
剣戟、
切り裂かれる化け物の肉塊、
血飛沫、
呼吸を荒くして膝をつく勇者、
背後から襲い掛かる、
……鋭い爪。
「翔ちゃん、危ない!」
リラは叫んだ。
翔が驚いて振り返る。
後先も考えずリラは飛び込む。
翔が怒鳴る。
……聞こえない。
何も聞こえない。
翔が手を伸ばす。
長い睫毛が濡れている。
少年の幻影が被る。
リラは、後悔する。
ああ、そうだ。
あのときも……彼は。
(ごめんなさい。また、泣いているの?)
背を走る痛みと熱に耐えきれず、リラは意識を手放した。
変わってしまった低い声がどちらの少女の名を呼んだのか、もはや把握することは叶わなかった。