2.故郷とクリームパン
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リラの前世、菜々が死んだのは15歳の春だった。
高校進学を直前に控えたある日、交通事故だったと思う。
事故の記憶は今でも曖昧で、ただ何となく、あのとき翔もその場にいたような気がした。
(トラウマになっちゃってないといいけど)
まだ小学生の男の子には、身近な人間の死、それも目の前で事故死されるなど、大変な衝撃を受けたに違いない。
リラが菜々だと名乗らないのは、下手にその辺りを刺激して翔を悩ませたくないから、というのが主である。無論、現状ではそこまで話せるほど親しくないというのが一番の理由だが。
菜々が死んだ5年後、奇しくも同じ15歳の時に翔はこちらの世界に召喚された。過去も含め召喚者が帰還した逸話は聞いたことがない。
(故郷……故郷か)
思えば10年間も戻っていない、二度と戻れるか知れないあちらの世界に、望郷の念を抱かずにいられるものだろうか。……否。
翔は故郷を懐かしんでいる。
だとしたら、日本での記憶があるリラの知識を生かして、何かできることがあるはずだ。
考えあぐねた結果の産物を見て、リラは自身の残念さに落胆する。
(なんでなの……結論がクリームパンって)
最初は故郷と言えばお袋の味……と容易に思い付いたが、あちらの世界で例えると中世ヨーロッパ風なこの国で、日本食の食材を手に入れるのはおそらく難易度が高い。
米もない、味噌もない、醤油もない。カレー……はスパイスが貴重なうえ調合など皆目わからない。ハンバーグ……は可能かもしれぬが、洋風過ぎて日本と結び付くだろうか。
通常食が無理なら菓子ならどうか。和菓子、あんこ……あんパン、いや小豆がない。パンつながりでクリームを使うなら、何とかそれっぽいものが作れそうな気がする。
勢いだけで厨房を借りて、柔らかめの丸パンの中に味を調整したお菓子用カスタードクリームを注入し、焼き上げて完成したものが、これである。
(絶対に違う。というかズレてる)
途中から完全に方向性を見失った。
確かにただの中学生でしかなかった菜々の知識を総動員しても、文化の全く異なる国の料理を再現するのは不可能だ。
(だからってこれはないわ)
せめて翔の好物がクリームパンだったという心温まるエピソードでもあれば別だが、飽食の時代に育った学生が平凡な菓子パン程度に執着する訳がなかった。
(まあ……折角作ったし、不味くはないから自分のおやつにでもしよう)
一通り落ち込んだ後、リラは無理にでも気持ちを切り換える。
故郷の味の探究は、もっと時間をかけて取り組めばいい。前向きにそう思った。
そう思った……思っていたはずであるが、リラは眼前の光景を信じ難い面持ちで眺めている。
翔が残念クリームパンを食べている。
(なんで?)
最初は出会い頭に手荷物のバスケットを見咎められただけだった。不審そうな表情をされたので、
「おやつです。ただの菓子パンです。クリームパンです!」
と、つい狼狽えて言い訳がましく声を張り上げてしまった。
リラの勢いに呑まれたのか、「菓子パン」という概念がこの世界では珍しかったのだろうか。
「食べてみたい」
初めての要求に抗う術はなかった。
「如何ですか……?」
恐る恐る、リラは無言のまま黙々とパンを頬張る翔に尋ねる。
意外にも反応はあった。
「少し違う」
「……違う」
「故郷の菓子パンとは」
当然の感想には項垂れるしかない。
リラは愛想笑いでショックを覆い隠す。
「ですよね。しょ……勇者様の故郷のお料理は、きっともっと、とっても美味しいんだと思います」
「いや」
何か考えるように指を顎に置くと、翔は一瞬……ほんの一瞬だけ口端を上げた。
(え?)
笑った……のだろうか。
リラの目は確かに翔の微笑みを捉えた。
「しょ……」
「君が作った方が手作りのお上品な味だ。俺が子どもの頃食べたのは、工場製品だから」
あれはあれで旨かったけど、と続けると、今度は間違いなく翔は本物の笑顔を見せた。
(翔ちゃん)
リラは早鐘を打つ鼓動と熱くなる頬を何故か他人事のように遠く感じながら、ただ茫然と翔を見つめ続けた。
+ + +
あれから翔は、僅かだがリラに打ち解けてくれたように思える。
その証左に、二人だけのときはぽつりぽつりと故郷の思い出を語ってくれた。遥かな過去を慈しみ、翔は断片的に、或いはかつてないほど饒舌に言葉を紡ぐ。
地域の難関校に合格したこと、修学旅行で京都に行ったこと、文化祭でドラムを叩いたこと、インフルエンザを拗らせて点滴を打ったこと、共働きのお母さんが昇進したこと、建築家のお父さんが独立したこと……海も、山も、街も、店も、ファミレスも、ファーストフードも、コンビニも、スーパーも、学校も、部活も、委員会も、塾も、模試も、友達も、家族も、楽しいこと嬉しいこと辛いこと悔しいことすべて、少年時代の彼を彩る何もかもが、今となってはリラにとっても何一つ取り戻せない追憶の残滓だ。
召喚された者の言語は双方向で自動翻訳される。ただリラだけは密かに、翔の科白すべてを日本語で聞いていた。
美しく散華し消えてゆく遥か彼方の言の葉は、悲しい歌の旋律のように奏でられ、リラは泣きそうになる。
「帰りたい……ですか?」
無意識だった。
だが、訊いてはいけない質問だったと、リラは直後に激しい後悔に襲われることになる。
翔は曖昧に苦笑した。
そして、
死んでしまった近所のおねえさんの話をした。
あのとき菜々ちゃんは、
……俺を、庇って。
「罰だと思った」
翔は自嘲気味に零した。
「だから、あのひとが亡くなったちょうど同じ年齢の、同じ日に、多分あの世界から追放されたんだ」
「……そんな」
リラは息を呑み蒼白になる。涙を我慢できなくなりそうだった。
前世の記憶がすべて鮮明に思い出せる訳ではない。特に死の直前はあやふやだ。
(憶えてない)
あの日多分、翔はとても近くにいた。事故の現場にいた。
トラウマどころではない。もし語られた内容が事実だったならば。
まだ10歳だった翔は、いったいどれだけの傷と重荷を心に負ったのだろう。
「俺は帰る資格は……いや、この世界で幸せになる資格もない」
「……が、う」
今度こそ、リラは泣いた。
「違う! 絶対に違う!」
突然感情的に叫んだ少女を見て、翔は明らかにたじろんだ。友人ですらない単なる使用人風情がなぜ激昂するのか、理由を知り得ぬ以上想像もつかないだろう。
お構い無しにリラは主張する。
「そんなの望んでない! 菜々は……そのひとは、翔、勇者様が幸せになっちゃ駄目なんて思ってない。笑って……幸せになって……自分が死んじゃったとしても、あなたが不幸だったら、そんなの……酷い、ひどいよ……悲、しい、よ」
語尾は嗚咽と相俟って支離滅裂だった。
白い両手で顔を覆い、取り縋るでもなく涙を流すリラを前にして、おそらく翔はかける言葉を見つけられず立ち尽くしていたのだろう。
とても近く、寄り添うように傍にいるのに触れるのを躊躇する気配を感じて、リラはまた啜り泣く。労りも優しさも却って痛ましく思えた。
結局リラはそのまま泣き止まず部屋に送り届けられ、王城内には今まで禁欲的と評されていた勇者のスキャンダルめいた話が広まることになるのだが、当事者たちは気にする余裕もなかった。