1.勇者様と侍女
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侍女長に呼ばれたリラ・ルイーズは、思いもかけぬ辞令に動揺した。
「ゆ……勇者様付ですか? 私が?」
「何か問題でも?」
年嵩の厳格で有名な侍女長は、末端に等しい15歳の少女に、否やを言わせない迫力でぎろりと視線を下す。
「い、いえ……あの、その、恐れ多くて」
「既にお前も2年目。そろそろ責任あるお役目もこなしてもらわなくては。明日からですが、よろしいですね?」
「……はい。精一杯務めさせていただきます」
慌てて一礼して、リラは逸る胸の動悸を抑えながら退出する。落ち着きのない、と呆れた侍女長の嘆息が背中に聞こえた。
リラが冷静でいられないのも無理はない。
この国で、この王城で勇者と言えば、10年前に異世界から召喚され、以来ずっと魔物から国や民を守り戦い続ける英雄である。
たかが侍女でも王城にいてショウ・タカシマダイラの名を耳にしていないはずがなかった。
だが、ただそれだけではない。
(翔ちゃん……)
単に救国の守護者としてだけでなく、リラは彼をよく知っている。
何故なら彼女が前世に生きていたのは、勇者ショウの故郷である異世界に他ならなかったからだ。
+ + +
貴族社会の片隅に生を受けたリラが、生まれる以前の記憶を思い出したのは、特にきっかけがあった訳ではない。幼い頃から漠然と、男爵令嬢の自分ではない別の少女の人生が脳裏に浮かんだ。
少女の名は羽堂 菜々といった。多分ここではない世界の住人だと、そちらの知識が逆に示唆してくれた。前世の文化では異世界転生だのの創作物設定は一般的で、かつ現在のリラの世界でも勇者や聖女の召喚などは稀に行われていたからだ。
日本の平均的家庭の平凡な学生であった菜々には、仲良くしていた5歳下の幼馴染がいた。
彼こそが高島平 翔、つまり後の勇者である。
(……翔ちゃん)
心の中で、かつて菜々が呼んでいた名をこっそりと呟く。
菜々が翔を最後に見たのは彼がまだ10歳の頃だった。以前から遠目には姿を眺めたことはあったが、お付きの侍女になって初めて、成長した彼を間近で目にした。
(翔ちゃん……立派になって)
もはや親戚の子どもの成長を喜ぶ年配のおばちゃんのような心境で、隠れた場所でリラはそっと目頭を抑える。
15歳で召喚されて10年……25歳の青年になった翔に、幼少の面影は薄い。
日本人では当たり前の黒髪黒眼だが、苦労のせいか前髪の一部が白色に変わっていた。切れ長の目元は涼し気で、鼻梁はすっと通っており、繊細な中にも鋭利さを感じさせる。
細身なのに逞しい身体も、滅多に話さないが低く落ち着いた声音も、城内の女性が密かに憧れを抱くのに相応しい。異国情緒の溢れる顔立ちは却って印象的で、髪も瞳も平凡な茶色でその他大勢に埋もれるリラからすれば羨望に値する。
15年も経てば人間は別人になる。理解してはいても、緩みもしない口元が、当時屈託なく笑ったそれと乖離し過ぎていて、リラは困惑した。
「勇者様、この度お仕えさせていただくことになりましたリラ・ルイーズと申します。以後よろしくお願いいたします」
「……ああ」
「勇者様、お茶をお淹れいたしましょうか」
「……ああ」
「勇者様、お着替えのお支度をさせていただいてもよろしいですか?」
「……ああ」
無表情の翔は、たった二文字しか口にしない。
(翔ちゃん、どうしたの?)
遠くからでは気づかなかった翔の異状に、リラは驚くより悲しくなった。
感情を表さず碌に会話もしない。打ち解ける者もなく、ただひたすら魔物退治に明け暮れ、王城へは休息に戻って来る程度である。
周囲にそれとなく聞いてみれば、10年前、召喚された当初より、勇者の生活も態度も現在とあまり大差なかったようだ。
(だけど、当然かもしれない)
ある日突然異世界に召喚され、強制的に身内や友人や慣れた環境から切り離され、勇者だから魔物と戦えなどと押し付けられ、精神的に参らない方がおかしい。
リラには何の助力もできないだろうか。
何日も考えたが良い考えは浮かばなかった。
+ + +
「勇者様、お食事のご用意ができました」
「勇者様、今日は良いお天気ですね」
「勇者様、本日は騎士様たちの鍛錬に参加されたのですか?」
「勇者様、今回の魔物は強かったのですか?」
「勇者様、ヴィオレッタ王女殿下(御齢8歳)が舞踏会のお相手をしてほしいと仰ってましたよ」
「勇者様、翔……ショウ様、とお呼びしても……いや、やっぱりいいです」
返ってくるのは変わらず一言、「ああ」だけだ。取り付く島もない、とはこのことである。
リラは頑張って鬱陶しいくらい毎日しつこく翔に話しかけている。他の侍女が引くくらいだ。リラ当人も時折めげそうになる。
心を開いてくれるなどあり得ないのではないか。元より余計なお世話に過ぎないのではないか。助けになりたいなどおこがましいのではないか……。
(ごめんね、翔ちゃん)
自分の無力さに失望する。
もしもっと早く翔の存在に気づいていたら、王城に上がる以前に勇者に興味を持って正体を知っていたら、侍女として王城に来てからでも積極的に翔に働きかけていたら、今より何かが変わっていただろうか。
(でも、諦めない)
落ち込みはすれども、その態度を翔に見せてはならない。リラは努めて能天気な笑顔で、今日も今日とて翔のもとに赴くのであった。
反応があったのは、リラが傍仕えになってから二月も経過してからだった。
「勇者様の故郷ってどんなところですか?」
「……」
二文字の返答もなく、リラは狼狽した。
何気なく口にしたのは、実は前世の記憶により熟知していたせいで、逆に今まで思いつかなかった質問である。
(もしかして踏んだ? やっちゃった?)
無理矢理召喚した側の人間が無神経に訊いてはならぬ領域だったかもしれない。機嫌を損ねた、或いは逆鱗に触れた可能性が高かった。
「も、申し訳……」
「……故郷」
翔は特に怒った様子もなく、ぽつりと呟いた。
「しょ……勇者様?」
訝し気に見上げるリラを振り返りもせず、翔は独り言のように答えた。
「ここより湿気が多かったな」
リラは目を瞠く。
初めて交わしたに等しい意味のある言葉は、リラにとっても懐かしい温度と湿度を感じさせ、胸を締めつけた。