第3話 『第一村人発見!』
朝……と言っていいのかはわからない。
朝日と言うには優しすぎるような,
まるで間近で白熱電球を焚かれた様な,
顔にほんのりと汗を浮かせる程度の熱気が,俺の目蓋をゆっくりと持ち上げた。
--?
??
???
眼が開かない。真っ暗なままだ。
いや。
時間が経つにしたがって徐々に,それが正しくないことに気づいた。
眼は確かに開いている。
依然として眼前に広がる暗黒の湖面と星空は,寝惚け眼を覚醒させるには十分で,
まるで徹夜明けの翌日に,眠りすぎて起きたらもう夕方だった時の様な,
困惑と無意味な焦りが俺を襲った。
俺は確かに「日差しのような熱気」を今,顔面に受けている。
たが,俺の網膜にはそのあるべき光源の姿は無く,星々が墨色のキャンバスを踊っていた。
俺は思い出したかのようにガラケーを探した。
ポケットの中で横倒しになっていたそれは,ズボンの繊維2,3本を道連れにしながら幾分強引に取り上げられた。
午前7時19分。
変わらず圏外を主張するディスプレイには確かにそう,表示されていた。
--太陽は,太陽はどこへ行った?
跳ね起きる様に立ち上がった俺は,相も変わらず二,三十メートル程しか無い視界を見回した。
そこは寝る前と変わらず灯りひとつない暗闇で,
違うところといえばこの日差しのような熱線と……星空の模様くらいだ。
昨日までハッキリと天を二分していた天の川は,西の空へと越したように細々しいものへと変わっていた。
「……もしかして,極夜か?」
地球は常に傾いた状態で自転をしている。
惑星や衛星が公転する軌道を円盤と見なしたものを公転面と言うのだが,地球の地軸はその公転面に対して常に23.4゜傾いている。
そのせいで,夏や冬といった,地軸が太陽側に傾いている季節は緯度によって日の出ている時間が違うのだ。
たとえば緯度0゜の赤道上は年中12時間キッカリ日が出ているし,そこから北,或いは南にずれるほど昼夜の時間差が大きくなる。
つまり,緯度が大きくなるほど昼と夜の長さが変わるということだ。
だから,緯度が 90 - 23.4 = 66.6゜を越える南極圏と北極圏では昼の時間が0以下,すなわち一日中日が昇らない極夜という現象が起こるのさ。
Фを23.4゜傾けて書いてみて,垂直に左右を昼と夜に分けてみれば解るだろう。
逆に一日中太陽が上っている日なんかを白夜と呼ぶ。
湖からのひんやりした風によって,俺の脳は若干の落ち着きを取り戻しつつあった。
ここがもし本当に日本でなかったら,例えば南極圏なんかだったら,この時期は確かに極夜だ。
それどころか,仮に今を夏至と仮定したら南緯50゜でもこの時間はまだ日の出前のはずだ!
ケータイの電卓でポチポチ計算しながらひとり悦に入っていたが,その拙い推理は一瞬にして否定された。
そもそも日本で夏の時期,南半球は冬のはずだ。
こんなところで寝ていたら,一晩のうちにお陀仏だろう。
極圏だというならば尚更だ。
それ以前に,一晩のうちに南半球にすっ飛ぶなんて,それこそあり得ないことだろう。
それに,俺はすっかり模様替えをした天夜の暗幕に,「うま座」を発見してしまったのだ。
7時間前に,俺が勝手に名付けた星座だ。
そいつが反時計回りに1/3ほど回転して,西の地平線付近に寝そべっていた。
地球は北から見て反時計回りに自転している。
そのため,北半球から宙を見れば,すべての天体は1時間に 360 / 24 = 15゜北極星を中心に回っているように見えるのだ。
デカルト座標系が反時計回りを正にしている理由だ。
ちなみに時計が時計回りなのも,太陽の天球上の回転によってできる影を日時計として使っていた名残らしい。影は逆に動くからな。
さて,眼前の星々が−−時計回りに255゜回転していない限り−−ここは北半球ということになる。
尤も,昨晩から17時間経った訳では無いことはガラケーの時計が証明しているのだが。
--ここは,どこだ。
ひっくり返った「うま座」の7時間前の位置を思い出す。
この煉瓦道の,ほぼ真っ直ぐ先だったはずだ。
その鼻先の延長線上の交点,すなわち回転の中心には,それは見慣れた北極星--こぐま座のポーラー--は無かったが,大凡の北点の位置はわかる。
俺は徐に握り拳を前へ突き出した。別に空手を始めようってんじゃ無いぞ。
真っ直ぐ伸ばした拳は,その幅が大体10゜ほどの角度になる。親指を立てれば15゜,小指も立ててアロハを作れば20゜だ。
「北極星(この場合は北点)の高度はその土地の緯度と等しいから……」
俺はそう呟きながら,右手の拳の上にサムズアップした左拳を重ねた。
--北緯25゜?!
宮古島や,硫黄島くらいの緯度じゃあないか! 嘘だろ承太郎!
昨日まで俺がいた東京は北緯35゜くらいだから,たった一晩で南北方向だけで1000kmも移動したことになる!
いや,ここに着いたのは昨日だから,一瞬で,か。
「いったい,ここは何処なんだ……」
情報が増える毎に,謎も増していくという矛盾。
明けない夜に瞬間移動。
もはや俺は学校の課題のことなど,頭の片隅にも残っていなかった。
ここが日本でなければ,親が捜索願いを出していても無駄であろう。
生温い風はまるで孤独を煽るかのようにピタリと止み,
無遠慮に華やかな星空はまるで絵の具で描かれた看板の様に生気を失っていた。
月の無い夜に煌めく携帯電話は,絶望を暗示するかのように電池の目盛をひとつ減らした。
宙を眺めていた。
東京じゃなかなか拝めない,まるで作り物の様な満天の燦きを前にして,俺の脳味噌は視覚以外の情報を開店休業にしてた。
だからかも知れない。
その荷馬車に,気がつかなかったのは。
???「一寸。邪魔なんだけど。」
--星が,綺麗だ。
???「ちょっと!」
……………………ヒト!?
さんざん新聞とにらめっこして,すべて外れだと思って宝くじを捨てようとしたら一枚だけアタリが挟まっていたのを見つけたときの様な,一種のカタルシスに似た感情が全身を駆け巡った。
???「わ、眩しい!」
まるで暗がりに落としたネジを探すときのように,咄嗟に向けたガラケーの光をその馭者から慌てて逸らす。
眩しさで彼女が腕で顔を覆う直前の一瞬,俺は確かに見た。
葦毛の小さな荷馬車を駆るその小柄な馭者は,
絹を紡いだような美しい銀髪に,眩しさの成か薄ら涙を浮かべたウルトラマリンの蒼い瞳を,
不釣り合いに重たげな暗い色のローブから僅に覗かせていた。
えらい美人がそこにいた。