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◇ ◆ ◇
『前から思ってたんだけど、なんで、6秒?』
ふたりきりの体育館に、重たいゴムボールを弾く音が反響する。その音が何度も何度も体育館を揺らしている。いつの間に馴染んだのは、むしろ心地良いと感じるようになったのはいつからだろう。
追ってバッシュの床に擦れる音。それ以外の音はここには無い。
佳音は弾かれたボールを両手に収めそのまま頭上を仰ぐ。僕はその後ろ姿を見つめていた。
僕はバスケ部で、佳音はマネージャーだった。僕らの中学に女子バスケ部はなく、男子バスケ部のマネージャーを引き受ける代わりに、部活動終了後のコートの僅かな所有権を、佳音は手に入れたのだ。
そしていつからかその数十分間の練習に、毎回僕は付き合わされていた。強制ではないし、頼まれたわけでもない。だけど僕らは登下校もずっと一緒だったから、それが当然のように感じていた。理由なんか要らない。僕らの関係は、世に言う幼なじみというやつだった。
『理由は特に無いの。ただ、それが私にとってカチリとハマる秒数だったっていうだけ。6秒間後と今とでは、確かに何かが変わっているの』
言って佳音は目を瞑る。僕には背中しか見えていないけれど、間違うはずが無かった。見慣れた光景とその瞬間を。
――6、5、4…
声には出さないそのカウントダウン。佳音の胸の内とそれから僕の。いつからだかは覚えていないけれど、いつの間にか佳音のそのクセは僕にもうつっていた。長い時間を共有してきた僕らの特別な瞬間だった。
――3、2…
声も無く重なる6秒間。その6秒間で佳音は世界を変える。
――1
佳音の手から放たれたボールは頭上に綺麗な弧を描き、バスケットゴールに音もなく吸い込まれていく。
振り返る佳音が疑わない目で僕に笑いかけた。
僕は6秒間じゃ世界を変えられない。でも変える必要なんてなかった。そこに僕らが居るのなら、それで良かったのだから。
僕たちは物心つく前からの幼なじみで、両親も互いに親友同士で家も近所。家族ぐるみで仲が良く、幼稚園や小学校や中学、それ以外でも一緒に居る時間は多かった。
多くの時間を共にしたせいか、好みや感性も似ていた。互いに影響を受けあっていたのだと今更ながら思う。
バスケ、マンガ、誰もいない体育館。板チョコを挟んだクロワッサンに紙パックのレモンティー。誕生日に交わしたのはお揃いのリストバンド。
なぜだか根拠も理由もなく、お互いのことは誰よりもよくわかっているつもりだった。そう、自分自身よりも。
カチリとハマるそれらを僕はくすぐったく思いながらも、どこか誇らしくも思っていた。
だけどいつからか、佳音だけの特別な瞬間が存在していた。
6秒間で佳音は世界を変える。だけどその6秒間で僕の世界は変わらない。
どんなに望んでも、同じにはならない。いつから佳音は僕を置いていくようになった。僕はいつもその背中を見送るだけ。
あの日、佳音の世界だけが終わりを迎えても。
◇ ◆ ◇
史学準備室はその名の通り歴史に関する資料が保管されている部屋だ。
壁のほとんどが本棚で埋められていて、窓の前にまで棚があるので部屋の中は常に薄暗い。
社会科だけでなく美術史や音楽史等の資料や教材等も乱雑に置かれ、その境界はひどく曖昧で、隅に寄せられた椅子や床にまで本や資料が積まれている歴史のちらかった部屋だった。
この場所を指定したのは、校舎の隅で人気が無いということと、僕にとって融通の効く場所だったからだ。
放課後、僕の待つ史学準備室に先に現れたのは入沢砂月だった。
それから互いに一言も発せず時間を消費し、藤島が現れたのは入沢砂月が来てから三十分後。
本や資料をどけ確保したパイプ椅子にそれぞれ距離を空けて座る。
「…で、お前の目的は?」
一番最初にそう切り出したのは藤島だった。その目はまっすぐ僕を見ている。
前置き無く本題に入る展開に、途端に弱腰になりたじろぐ。ふたりを脅迫して呼び出しといて情けない限りだ。
一応会話の切り口としてこの史学準備室にまつわる怪談なんて用意していたのだけれど、まったくの無駄になった。流石にそんな空気ではない。
観念して誤魔化すのをやめた。
「…知りたいことが、あるんだ」
「俺? それとも、そっち?」
言った藤島が入沢砂月に目だけで視線を向ける。
入沢はこの部屋に入った時から俯いたまま、その表情はみえない。こちらを見ようともしない。
「…知りたい過去がある」
僕の言葉に入沢砂月はゆっくりと顔を上げた。なにかを探るような、見極めるような。そして何より僕という存在を図るような目だった。
僕は意を決してゆっくりと、言葉を選びながら自らの目的を口にする。
「…2年前…僕の、知り合いが死んだ。当時の日記から自殺と結論づけられたけど…遺書は残ってない。僕は自殺だなんて思っていない。僕は彼女が死んだ理由が…知りたい」
過去を視る――真実を。それはずっと僕が望んでいたことだ。願っていたことだ。こんな何の役にも立たない時を止める力なんかではなく。
「…知って、どうするの」
入沢砂月がようやく口を開いた。
僕を見ているのかと思ったその目に、僕は映ってはいない。
「あんたの自己満足の為にあたしを利用したいだけなら、お断りよ。あんたの知り合いがどんな理由で死のうがあたしには関係ない。くだらない」
ぴしゃりと言い放った入沢砂月は、パイプ椅子から立ち上がり扉の方へと向かう。僕はその背中を何も言わずに見送った。
くだらない――言われて言葉を胸の内で繰り返すと、自嘲にも似た笑みが漏れる。
全くその通りだ。
扉の開く音が狭い部屋にも廊下にも響いた。
入沢砂月が頭だけ振り返り、視線を僕ではなく藤島に向けた。
「…あんたも…そういうこと続けてると、ろくな死に方しないわよ」
その目と口調に混じる、軽蔑の意。僕は空っぽになった頭でその意味を考えてみる。
少し離れた場所に座る藤島が口を開いた。
「ご忠告ドーモ。生憎俺の未来は誰より俺自身が一番良く知っている。お礼にひとつ俺も教えてやるよ」
藤島はいつの間にか用意したパイプ椅子から、端に寄せられた古いソファに移っていた。黒い革張りでふたりがけサイズのソファで、僕の指定席だったのに。
わざわざ荷物や教材でカバーして目につかないようにしていたのに、目ざとく見つけたようだ。意外と油断ならないな、こいつ。
「お前もソレ、ほどほどにしといた方がいいんじゃねぇ? 俺が視た未来だと、近い内お前死ぬぞ」
まるで一介の高校生の口から出たとは思えない会話だ。だけどここに居るのは誰ひとり普通の高校生ではなかった。