第八課「オーサカ」
キューシュー地方に遅れ地域としての主体性を確立したのはヒロシマの東に広がるカンサイ地方だった。
カンサイ地方はウミムコーなどの海外からはるかに離れていたために、その文化も他からの影響を受けずに独特なものが育った。
カンサイ地方で初めに国家と呼べる組織を樹立したのはオーサカである。オーサカはそれ以前は数多くの部族集団が乱立しており、血なまぐさい戦争が長く続いていた。しかし辺境のナラからやって来たヤマオカ・ハジメという男が軍事的手腕によってオーサカの統一をなしとげ、初代の王に即位した。
当時の歴史書はいずれも、数人の仲間とともに焚火を囲み、誰が王となるかで会議した際、何回か王になってほしいという頼みを何回か辞退してから、ようやくこれを受け入れた、と伝えられている。
オーサカの君主は『ソーリ』と名乗り、その権力は極めて堅かった。庶民に対しても官吏を送って監視の目を光らせ、ソーリの地位を揺るがす者があれば功臣であれ粛清は辞さなかった。
ソーリは基本世襲であり親から子へと受け継がれ、都市同盟におけるように多数決では決まらない。ソーリの意向がもっとも大切とみなされ、その権威を犯す者は世界の秩序を乱したとみなされる。
オーサカは早い段階で外への征服戦争を繰り返し、第三代ヤワジャナの即位時すでにナラ、キョートの二地方を領有。ヤワジャナはさらなる領土を求め2236年、シガ地方に攻め入る。オーサカの軍団は分裂時代の戦乱を通って厳しく鍛え上げてられており、その翌年には難なくナガハマ・マイバラ地方の北部にまで到達。
シガ北部の部族はオーサカの侵略に抵抗するため、自分たちも君主を推戴することに決めた。そこで北のフクイからニノミヤ・マキアゲが招かれ、連合体を築き上げる。
オーサカ人は気候の寒い北の地にはあまり関心がなく、すぐにニノミヤとの間に国境画定の交渉を急いだ。ニノミヤはオーサカ軍の兵士たちの間で厭戦気分がはびこっていることを見抜き、その軍勢を巧みに山奥に導いたのち、分断して撃破した。いわゆる「ヨゴの戦い」でオーサカは折れ、アネ川を国境としてフクイ国の建国を認める。
オーサカに比べるとフクイはまとまりが弱く、各大部族の連合体という感が強かった。もっとも、後世のソーリたちはその権力の強化のため力を尽くすわけであるが。
オーサカはその後東に拡張し、ヤハギ川に至った後征服活動は停滞する。
2261年、ヒロシマ人が大勢で襲来し、オーサカの首都を包囲した。当時のソーリ・ミソラオはナイトウ・サタクを司令官としてヒロシマ人を迎撃させ、数カ月の後にヒロシマ人を撤退させた。その勲功及び西の防衛のためミソラオはナイトウにヒョーゴを下賜。最初はあくまでも属州の一つと言う扱いであったが、ナイトウ家が次第に大きな権力を持つようになった結果、独立した国家へと変貌していく。