第六課「ヒロシマ地方」
キューシュー島にナガト海峡を接して続いている一帯を、ヒロシマと呼ぶ。かつてヒロシマはより限定された、狭い範囲をさす言葉だったらしいが、古代末期の大災厄により正確な地理知識が失われるにつれ、もとから人々に名の知られていた『ヒロシマ』という言葉の意味が変化し、その範囲も拡大していったのである。
シモノセキなどの西端を除けば、キューシュー人にとってヒロシマはいまだ文明の及ばない不毛の地だった。ルタオ人がキューシュー人にいだく優越意識を、キューシュー人は都市を持たず小集団で行動するヒロシマの住民に向けたのである。
前述したようにヒロシマの北岸は『ウミゾイ』と呼ばれ都市同盟からの入植が進んでいた。しかし、その内陸は地形が険しく、先住民の抵抗が激しいこともあってなかなか征服できなかった。
ウミゾイ以外にも、ヒロシマに都市同盟の力が厚い場所は存在した。シコクのイマバリ市の反対側にある、オノミチ市がこれで、ヒロシマ人はこの街とも常に抗争を続けていた。
2276年、プサン国はチョンジュを征服してチョラド地方のほぼ全域を支配下に収める。この頃ウミムコーでは古代の科学技術の復興しつつあり、出生率が大幅に上がってどこでも人口が増えつつあった。時のプサン王チェ・サンス(ヨンギルの子)の命令によって余剰人口を排出するためにヒロシマを流刑の地として選んだ。都市同盟としてもヒロシマの勢力図をかき乱せるなら拒否する理由はなかった。
これが、ヒロシマが後にニホンの中でも極めて独特な雰囲気を持った地域となる発端。
ウミムコーから連行される人間は年に十人いるかいないかという単位であり、その内訳も窃盗などの軽い罪を犯した者や、チョラドの捕虜などに限られていた。社会的地位の高い政治犯などは少なかったようである。
流刑囚の中には自分たちだけで固まって暮らす者もいたが、生活習慣の違いに適応する以上現地住民の力を借りるわけにはいかず、ヒロシマ人と混住するのが常だった。
言語においてはウミムコー語を忘れニホン語に乗り換えたが、それ以前の言語の影響は借用語や言い回しに若干受け継がれたようである。しかし出自の伝承に関しては長く受け継がれ、ヒロシマ人の中でウミムコー人の血を引いていることは重要な『違い』、集団を分ける条件として機能した。
時代が下り、ヒロシマが一つのまとまった地域としての自覚を持つようになると、この事実がヒロシマの起源を解き明かすものであるかのようにキューシュー人の間でも考えられ、この認識をヒロシマ人自身も利用し、共同体の秩序を理由づける伝説として持ちだし始めるのである。
現実には、この流刑の実情がどうであったか検証するのは非常に難しい物がある。期間や人数に関しては明確ではない。そもそもウミムコー人の流刑について明確に記述している文献はほとんどが24世紀の半ばから著されたもの。
後世になると、ヒロシマ人がウミムコー人の血を引いていることは盛んに喧伝されるようになる。古くからの伝統や血筋を重んじ、かつ親族とあつくよしみを結ぶ性格が『ヒロシマぶり』とされたりもした。