第四課「チェ・ヨンギル来航」
23世紀初頭、キューシューの北、対岸にあるウミムコーではいくつもの国が並立して争っていた。
プサンではチェ・ヨンギルが他の国を併合しながら勢力を拡大しつつあった。周辺の地理に関心を持っていた彼は2048年キューシューの都市同盟に使者を送って、八月ごろに自らフクオカ市を訪れた。
名目は服従と貢納を求めることであったが、キューシュー人にとっても交易の範囲が広がることをこばむ理由はなかった。キューシュー人は国家の力を高めるためにその技術と文化を欲したのである。
以後、キューシュー人は積極的にウミムコーへと出向くようになる。職人、雑用、傭兵と、その目的はさまざまであったが、キューシュー人の活動範囲はこの接触によって飛躍的に拡大した。
ニホン内部においても、すでに23世紀初頭においてヒロシマ北沿岸にキューシュー人の船が行き交っていたが、2250年代には航海者イシダ・リノがはるかノト半島に上陸してその地理を詳しく描写している。もっともイシダ自身はその後、シコクを周航したついでにさらにカンサイへ向かったきり消息を絶つのであるが。
船で移動できる範囲に比べれば居住する範囲の移り変わりは微々たるもの。
ルタオによって南部が抑えられ、ヒロシマ内陸には都市的な秩序を持たない部族が混在して進入が困難なために、ヒロシマ北沿岸はすでに都市同盟のフロンティアとして注目されていた。本土から移動した移民がイスモ市やマツェ市を建設し、この地はやがて『ウミゾイ』という名前に。
シコクではヒロシマにごく近いイマバリに拠点が築かれたのを皮切りに南へと支配が伸びた。
これら植民市は基本的に移民を送った都市と深いつながりを持つのが基本であった。たとえばウミゾイの街は都市は基本的にフクオカ市やコクラ市の息がかかっており、都市同盟で内紛が起こった時は決まってフクオカ側につくものだった。ところが、中には母市とほとんど関係を切ってしまう街も。ほとんどこの代表例がトットリのコトウラ市であり、もともとはナガサキ市が主体となって開発された街だったが、やがてナガサキをしのぐほどの力を持つと、都市同盟全体のつながりからも逸脱することが多くなった。もっともそれはもうすこし時間が下った頃のこと。
23世紀半ばの時点で、ルタオ人の勢力はヒゴ半島からオオスミ半島まで及んでいた。体制も、いくつもの長老が集まって物事を決定する都市のほか、一人の権力者がほぼ独裁的な権力を持つ地域もあり、一様ではない。その時はなおルタオ人が少数、キューシュー人が圧倒的多数で、ルタオ人と争うといっても実際にはキューシュー人同士の戦いに他ならなかった。
アマクサの長老、チェン・チチャンという人物はフクオカ市と深い友好関係を結んでおり、キューシュー人からも敬愛されていたが老齢になりつつあった。
チェンには二人の兄弟がいたが不仲であり、特に都市同盟との関係をめぐって対立していた。兄のシャオファンは都市同盟の征服を主張していたが、弟のシャオレンは都市同盟との融和政策を選び、争いがやまなかったのである。
チェンが亡くなると、シャオファンがアマクサの主となった。シャオレンはシャオファンからの刺客を恐れてカラツ市へと亡命した。
ルタオ人と国境を隣にしていたカラツ市の民会は、ルタオ人の反感を買わぬように話をシャオレンを送り返す方向で話を進めていたが、フクオカ市からの特使が「決してシャオレンを取り戻させてはならない」と伝えたところ、横暴に追いかえしたため、にわかに都市同盟に分裂のきざし。
フクオカ市はひそかに軍を遣わしシャオレンを連れ帰ったが、このことがルタオ側に露呈するや、シャオファンはこれを口実としてフクオカを攻撃する計画をねり始めた。
いまだこの頃は都市同盟の結束もゆるかったのだろう、カラツ市もすぐアマクサに援軍を約束し、その後いくつかの小都市もこれに同調。
ナガサキに集結した各都市の軍がひそかに北へ進む間、アマクサとからんだクマモト周辺のルタオ人が陽動のためにフクオカ周辺の田畑を荒らし回る。
難なく都市同盟領の中枢へ接近したアマクサ軍はついにフクオカ市の城壁にとりつき、四方を包囲してしまった。2264年七月のことである。