第九課「東西地域の結合」
フクイの支配圏は主にクズリュー川以南の地域であり、この川を越えると五十近くの部族がひしめきあっていた。
フクイはこのイシカワの部族を手なずけることに非常に苦労した。基本的に北方部族は同盟者と臣下という立場を往復し、決してどちらかに固定することはなかった。
ノト半島は基本フクイ人の干渉が直接的には及ばない地域であり、イシカワ諸部族はノト人が侵攻してきた時にはフクイに救援を求めるが、逆にイシカワ側がフクイの国境を侵した時はノト人もこれに乗ずるなど、国防上大きな脅威となる可能性を持っていたのである。
2280年代から船路でフクイはたびたびノト半島の上陸を行っている。特に2284年ワジマ沿岸に兵を進め、数十人を捕虜とし、兵士百人程度を駐留させた。内陸の制圧もしばしば企てられたが、険阻な地形がいずれもこれをはばむ。
2290年イシカワの三部族が渡河してツルガ近郊に至る。この反乱の鎮圧には数年かかり、ソーリニノミヤ・オリムは討ち破った部族をシガのタカシマ地方へ強制移住させた。タカシマ地方は領土の帰属が明確ではなく、国境をめぐってオーサカと係争が起こっていたから、支配の正当性を確立させるねらいがあった。捕囚のイシカワ人が多数住みついて以降、タカシマ問題は次第に議論されることはなくなっていく。
2310年、フクオカ人がツルガに来航。都市同盟にとってそれは東方世界の「発見」であり、カンサイ地方にとって西方世界の「出現」を意味する。
当初、オリムはキューシューの力がさほど強大だと認識せず、イシカワやノトの蛮族と同じくらいに考えていたらしい。事実、オリムの治世中はせいぜい海産物の交易にとどまり、彼らの進んだ知識を仕入れようという動きは薄い。
都市同盟の史書はフクイの体制を昔の「専制主義国家」に似ているものだと記している。フクイを通して、オーサカやヒョーゴについてもキューシュー人は感知するに至った。もっとも、初期の記録ははなはだ不正確に満ちたものではあるが。
2312年に即位したオリムの子、カナウは私人としては奇行の多い王だったとされるが、キューシューの文化に深い関心を示し、都市同盟の文物を持ち帰らせたり、あるいは諸都市に使節を派遣させた。それでも、その運動はほとんど庶民層に影響を与えることはなかった。
フクオカ人はフクイの許可を得て、さらに奥地への航行を試みている。フクイ人の航海者オクノ・ヒロシは2297年ニーガタの北辺に浮かぶ島を発見し、「ハテノ島」と命名。2320年に出版された航海記「ニーガタ探検記」では、アキタという街がニーガタの岸辺にあり、古代末期の技術を保存した技術者集団があると書き記している。彼らは自分の意思で動く人形や空を飛ぶ車などを製作しており、筆者は街の中で実際にそれが働いているのを見た、とも証言している。
しかしアキタ人はその仕組みについて部外者に教えることは決してなかった。この地を旅行した人物はみな厳しい警護につきまとわれ、自由な行動を許されなかった。アキタの内部体制の資料はごく限られており、少なくとも一部の権力者が市民を統制する寡頭制だったことは確か。
2352年七月、謎の大火がアキタで起こり、都市を飲みこんだ。それは三日三晩やむことはなかった。
アキタの真実の姿が不明である理由がここにはある。フクイの商人が来航し、アキタの市街地が灰燼と化したのを目撃するのはその数日後。
フクイはアキタの廃墟に拠点を築いたが、「かつての威容には及ぶべくもないありさまであった」と当時の史書は記している。だがアキタの滅亡によってフクイの勢力は次第に北上していき、二十四世紀末ついにホカイドのオシマ半島南岸、ハコダテを征服する。