囁風
サユキが言うには、約束の時が来たらしい。誰との約束とか何のための約束とか、ショウが尋ねることはなかった。彼はその言葉をそのまま何の疑いもなくただそのままに受け止めた。
まだ夏の暑さが残る季節ではあるが、この時間帯は幾分か過ごしやすい。リビングに向かうと、既にテーブルには朝食が用意されていた。
芳しいコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。出来たてのオムレツには真っ赤なトマトソースとたっぷりのパルメザンチーズがほどよく溶けている。ヨーグルトの中にはブルーベリーとイチゴが浮かび、クラッシュナッツが振りかけられている。色とりどりのサラダには、たっぷりのトマトとカボチャのチップが飾られている。
ここに来てから見慣れた朝食の風景であるが、昨夜のこともあってか空腹のあまり胃が締め付けられているようである。
サユキは既に外出する準備を終えて、優雅に紅茶を飲んでいる。
「おはよう」
とだけ言って席に着く、彼女もおはようと言ったのみで昨夜のことなど全く興味がないというように尋ねもしない。まるで全ての出来事をしってしまっているように・・・。
ショウは、牛乳を一気に飲み干すと焼きたてのパン・オウ・ショコラにかぶりつく、バターの香りとサクサクの食感口の中でとろけるチョコレート、至福の時である。淒い勢いで食べ尽くす。
サユキが楽しそうにその様子を見つめている。とっても美味しそうにそして幸せそうに食事するショウのその姿がたまらなく好きなのだ。
最後にコーヒーを飲み終えたショウがカップを置くと同時に、サユキは立ち上がった。
ふぅー、と大きく息を吐き、ショウも立ち上がる。
約束の時が来たらしい、これから何処に向かうのか、それは彼女に確認するまでもない。それはきっと、彼が望むべき場所に違いなかった。
緑の大地をいつものリムジンが走る。もちろんその後部座席にはサユキとショウの姿があった。
ショウはいつもと違い、高級なスーツに身を包んでいた。淡いモスグリーンのスーツに薄いピンクのワイシャツ、ネクタイはアイボリーとイエローのストライプ、ショウには奇抜な色使いではあるが妙にしっくりとしている。
滅多に着ることのないスーツに少し息苦しさを感じるが、なにか気が引き締まる思いがする。
目的地に着くまでの時間、サユキは簡単にショウが向かうべき場所と、その手順を教えてくれる。
なぜ彼女がそこまでの手筈を整えることができたのか全く不明ではあるが、素直に彼女の言葉に耳を傾け総てを頭に叩き込んだ。
ここで彼女に不信感を抱くことは禁物である、これからの行動に躊躇してしまっては死を招く恐れがあるからだ。
ショウは何も言わない、ただ真っすぐにサユキを見つめ頷くだけであった。
車は思ったとおりの場所に行き着いた。
当たり前のようにサヴァラン社の正門から堂々と入っていったのだ。
守衛と運転手が何やら言葉を交わしていたが、それだけであった。
広大な敷地の中には、いくつもの近代的な建物が並び背の高い煙突からは朝もやのような煙が棚引いている。
整然と並ぶその建物のあいだに伸びる私道ですれ違うのは、電動のモビリティーのみで環境にも配慮されているのがわかる。流石にフランスで随一の企業であると言えよう。
正門から入り、10分程走るとひときわ背の高いビルの前で車は音もなくゆっくりと止まった。
サユキは何も言わず、ショウの瞳を見つめた。
ショウもまた何も言わずサユキの瞳を見つめ、軽く頷く。
それが、この二人の最後の挨拶であった。
ショウはドアを開き、真っ白なビルの正面玄関へと姿を消した。