寒風
風がざわめいていた。強い風柔らかな風が入り乱れ、木々の枝葉が右に左に揺れ動く。季節外れの強風に、新緑の木々の葉たちが戸惑いを見せていた。
夏の盛りを迎えたクレルモンフェランの街並みも、深緑の木々に彩られ明るい太陽の光の下で輝いている。新旧の建物が立ち並ぶ、街はずれの住宅地にひときわ大きな赤レンガで立てられた洋館の一室。
今の季節はつかわれることのない大きな暖炉がある天井の高い広々としたリビングルームの真中に据えられた、カッシーニのソファーセットに向かい合って2人の老人が座っている。
どちらも柔らかな表情をしてはいるが、その瞳に笑みはなかった。
「突然訪れて、申し訳ありません。どうしてもイゴール様のお力が必要になりまして、恥を忍んでここに馳せ参じさせていただきました。ご迷惑とは思われますが、この老臣ニコラスの顔を立てていただきたくお願い致します。」
「コレットの事か?」
「やはりご存じでございましたか。」
「引退して勝手気ままに生きようとも、耳をふさいでいない限りその手の情報は勝手に流れてくる。」
「さすれば、コレット様を暗殺せしめた男の正体もご存じなのですか?」
「信じたくはないことだが、その男ノアールの者らしいとは聞いている。そうなると、わが子カインの仕業となるが・・・」
イゴールが苦渋の表情を見せる。
「私が望むものはただ一つ、漆黒の指輪だけです。」
その発言に、イゴールの目が見開かれる。驚きのあまり言葉を失い唸りながら天を見上げた。
「そこまでは、ご存じなさらなかったようですな。」
「もしや・・・とは思っていたが、あの兄が他人の手によって死を迎えるなど考えてもいなかった。すべてが嘘であってくれればと祈っていたのだが・・・。」
絞り出すように言葉を紡ぐ。
「しかしながら、これは起こってしまった事実。心の中は私もイゴール様と同じでございます。真実に背を向けることができても、事実から逃れることはできません。さすれば、私がやるべきことはただ一つ、漆黒の指輪をこの命に代えて必ず手に入れることにございます。」
「ニコラス、お前の言うことは身が裂けるほどによく分かる。しかしながら、老身で隠居生活をしているこの私に何ができるというのだ。」
「この仕置き、イゴール様なくして始まりすらしますまい。何をおいてもあなた様のお力添えなくして、でき得ることなどありましょうか。」
「分かった・・・、それで、私は何からすればいいのだ。」
「なにとぞ、ご子息であるカイン様を説得していただき、まずはヴェントと呼ばれる男の身柄と漆黒の指輪をお渡しいただきたい。」
年老いた力のない瞳がニコラスの瞳を見つめている。
時の流れは残酷なものだ。ニコラスは心の奥で呟いた。あの、コレット様と肩を並べておられたイゴール様が、いくら何十年も前にコレット一族から身を引き、裏の世から表の世に移ったとはいえここまで力を失っているとは思いだにしなかった。
「私の息子は、私の過去は何も知らない。もちろん、コレットと私の関係など・・・・」
「はっ、・・・そうでございますか。」
今度は、ニコラスが苦渋の表情で黙り込んでしまった。そして、自分の思慮の浅さを悔やんだ。裏の世で生きることを諦め表の世に出た男が、自らの家族に裏の世に在った自らの過去など話そうはずはない。
そしてまた、その男の息子が裏の世に足を踏み入れ、その身の伯父を手にかけるとは皮肉といっても悲しすぎる現実である。
沈黙が二人を包み込む。
そして、しばらく時が流れた。その変化に気づいたのはほぼ同時であろう。
伏し目がちの視線が上がり、二人の視線がかみ合った。ただ、その受け取り方はそれぞれ全く違ったものであった。
イゴールの鋭い視線がニコラスの瞳を睨みつける。
「どういうことだ。」
それまでとは打って変わったきつい口調である。
「私にも窺い知らないことでございます。何者でしょうか?」
「私にはコレットの者と感じられるのだがな。それとも、年寄りの勘違いなのか?」
目を瞑り、気配を慎重に探るニコラス。
「確かに、私に心当たりがあるものの気を感じられますな。」
「どういうことだ。」
「さて、この私の身を案じての事とは考えにくいですし・・・コレットの者であれば、私がいる限りイゴール様に指一本触れさすようなことはいたしませぬ。勿論、それ以外の者であっても同じこと、私がいる限り安心してください。」
それからというもの、イゴールの様子がおかしかった。嫌に落ち着きがなくなって、キョロキョロしだしたのだ。その様子を見るニコラスの瞳が怪訝な光を見せる。
いくら年を取られたというもののこの様にお変わりになるものであろうか、という疑問が頭をもたげてくる。
しかし、そのようなことを悠長に考えている時間はないようであった。屋敷を取り囲んでいた気配はすでにドア一枚はさんだすぐそこまで来ていた。
ニコラスの組み合わされていた拳に力が入る。一瞬であるが彼の体を陽炎のようなものが包んだ。
ゆっくりとドアのノブが回り、ドアが開き黒づくめの男が現れた。男はゆっくりと覆面を取る。
色白の端正な顔立ちの顔が現れる。コレット一族の実質的トップであるアルベルトの右腕であるローランであった。
「やはり、ローランだったか。何をしに来た。」
「なぜ、ここにニコラス様がおられるのですか?」
「お前は覚えてはいないだろうが、私の目の前にいるこのお方がイゴール様だ。いくらなんでも、その名を聞いたことがあろう。」
ローランの表情が一気に変わると、跪き従順の姿勢を取る。
「何も知らなかったとはいえ失礼いたしました。」
「何をしに来た。」
口調が少し柔らかくなった。ローランの従順の姿勢を見てひとまず落ち着きを取り戻したのだ。
「実は、ある情報でこの館にヴェントと思わしき人物が老人と住んでいると分かりましたので、時期を消してはと急ぎ参りました。」
「その情報とは一体どのようなものなのだ。」
「以前も同様の情報がありましたが、正確なものでした。」
「同様の情報とな・・・」
叱責の視線が厳しくローランを責める。
ニコラスはそのような情報など聞いたこともないし、以前の情報があった時にはヴェントと捕え損ねた、という事である。
ニコラスの無言の叱責を体に感じながら、自分の失言を悔やんだ。しかし、悔やんだところでどうしようもない。それよりも、ローランは実を取りたかった。情報通りであるとすれば、ここにヴェントがいるはずなのだ。そして、ここにいる老人はサヴァランの創始者であるイゴールなのである。これで2つの点が繋がった、ローランはそう思った。
「館の中を捜索させていただきたく思います。」
「さて、どうしたものですかな…。」
そう言って、ニコラスはイゴールを見つめた。
「ここで、いる・いないの論争をするより、そちらのほうが手っ取り早いであろう。好きにすればいい。」
妙にその口調がニコラスの心に引っかかった。何かを隠しているのは間違いないようだ。ニコラスは確信を得た。
「それでは、失礼いたします。」
そう言ってローランは部屋から去って行った。それに伴い、部屋の外にあった気配も消えた。
ニコラスもゆっくりと立ち上がり。
「やつらだけでは心配ですので・・」
と言うと、姿を消した。
そして、イゴール自身もまた姿を消して誰もいなくなった。
それらの状況を、ショウは暖炉の中からずっと見ていた。
誰もいなくなったリビングであるが、暖炉の中から出ようとすると首筋にピリリと刺激が走る。危険信号である。何者かがまだ見ている気がした。
ショウはその場でじっと30分様子を見てから、慎重に煙突の穴から館を出て行った。