靄風
空は低く垂れこみ、小雨が続いていた。夏の暑さとしつこい雨に誰もが気を沈めている。
クルベールにリシェールから連絡が来たのは、昨夜の最後の客が帰って間もない頃だった。
なぜかベアールと共に店で待っててほしいという事であった。何も事情を語ろうとしないリシェールにクルベールは落ち着かない様子である。
ベーアールも首をかしげていたが、なるようにしかならないでしょう、と気楽なものである。
リシェールたちは約束の時間の10分前にやって来た。リシェールは一人ではなかった。
「ただ今お父さん、ベアール」
そう言って二人とハグをする。
出て行った時より大人びた落ち着いた雰囲気を纏った我が娘を見て心がざわめく。ベーアールはクルベールとは違い素直に彼女の成長を喜んでいた。
そして、二人の視線はリシェールの背後に佇む女性に注がれた。
「お久しぶりでございます。クルベール様、ベアール様」
ミリアンであった。
彼女はいつものセクシーな挑発的な服装ではなく、黒のスリムなパンツに白のブラウスという至って平凡な服装であった。
あまりにも慇懃な態度のミリアンにリシェールは目を丸くする。そんな態度が彼女の中に存在しているとは思ってもなかったのだ。
クルベールは考え深そうな表情でミリアンを見つめてただ頷くばかりであった。
今日の天候のように重苦しい雰囲気を打ち破ったのはベアールであった。
「さあ、お二人とも長旅で疲れたでしょう。ここで立ち話をしてても空腹は満たされません。まずは座って乾杯しましょう。」
そう言って、先頭に立ち席へと案内する。
今日は定休日でどの席でも選び放題だというのに、ベアールは一番奥にある個室へと案内した。
二人が席に着き、しばらくするとベアールがベリーニを持ってきてくれた。よく冷えたベリーニが渇いたのどに心地よく、シャンパンの泡が口の中で弾け桃の香りが鼻へと抜けていく。思わず二人して軽く飲み干してしまい、見つめあうとつい笑ってしまった。
いくらか緊張が解けてきたようである。
再びやって来たベアールは、見透かしたようにお替りのベリーニと赤ワインを持っていた。それに続いてクルベールが鶏のトマト煮込みと山盛りのパンを持ってくる。
「今日は定休日で大したものが作れないが、これで勘弁してくれ。パンとチーズならいくらでもあるから。」
「そう、それとワインも売るほどあります。」
ワインを注ぎながら、ベアールがにっこりほほ笑む。
「さあ、とりあえず食事を楽しもう。」
クルベールはそう言うと、ワイングラスを掲げた。
「我々の健康と明るい未来のために・・・」
軽くグラスを合わす透き通った音が響く。
「うん、おいしー!!」
ミリアンが目を丸くして喜んでいる。
「クルベール様の料理懐かしいです。あの頃のことを思い出します。」
「ミリアン、いい加減その様付はよしてくれないか、クルベールでいいよ。」
そう言って、クルベールはワインを飲み干す。
美味しい料理は人に素顔を与え、楽しい時間を作り出す。
リシェールが旅先での出来事を楽しそうに話し、ミリアンがそれに合いの手を入れる。二人の息がぴったり合ってとても面白かった。
クルベールとベーアールも嫌なことなど忘れて、久々に心から笑い、にぎやかな食事を楽しんだ。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、いつしか夏時間になったパリの空も夕闇に包まれていた。
話しの口火を切ったのはクルベールであった。
「リシェール、私に何か話があるんだろう。」
強いまなざしでリシェールはクルベールを見つめる。ミリアンは静かに瞼を閉じる、それはあなたが然りと話しなさいというリシェールへりメッセージである。
「ショウを助けたいの・・・」
はっきりとした口調でそう言った。
「ショウを助ける?」
言葉の意味がつかめずにクルベールは繰り返した。
「そうなの、彼は今とっても追い詰められているの、いつ殺されてもおかしくないくらいに。」
クルベールは顎鬚をつまみながら考えている。何を考えているかはリシェールには分からない。
「助けると言っても、お前に何ができるというんだ。」
優しい口調で諭すようにクルベールは言った。
「お父さんには聞きたいことがいっぱいある。でも、今すぐに聞こうとは思わないの、どうしてそうなったのか・・二人の間に何があったのか・・・私はお父さんの事を信じている、それだけでいい、責めるつもりなんかない。ただ、今は私にはお母さんがいる。お父さん・・・この旅でミッシェルと親子の絆を確かめ合うことができたの、お父さんには本当に感謝している。」
クルベールは黙って俯いてしまう。罪悪の意識に心が引き裂かれそうだ。
ベアールは涙に潤んだ瞳でリシェールを見つめている。優しく、そして強く育ったリシェールを見て感極まっている。
リシェールは淡々と島であったことを話し出した。
「この旅は始まりから驚きばかりだった、フェリーに乗り込むときミリアンに偶然出会ったの、でもミリアンにあったのはこの時が初めてではなかった。カンカルの街で誘拐されて城に監禁されていた時に、私の面倒を見てくれたのがミリアンだった。もちろんあの時はお互いに何者なのかは知らなかったし、ミリアンはあの時ジョルジェットと呼ばれていたわ、まさかそんな彼女が私の叔母だとは思っていなかった。」
「クルベール様その件に関してはリシェールが自分の姪であることに気づかず何もしなかったというあまりにも恥ずかしい行為に私自身心を痛めています。そしてクルベール様に心から謝りたいと思います。」
ミリアンは神妙な趣きで言うと、クルベールの表情を見つめた。
「ミリアン、誰にも過ちはあることだ気にすることはない。リシェールに最後にあったのもリシェールが本当に幼い頃、分かるはずもないだろう。それよりも私は君に感謝しているんだ。きっとこの旅で君がリシェールのそばにいてくれたことで娘はすごく助けられたことだろう、ありがとう。」
クルベールが笑顔で言った。それを見てミリアンもいつもの笑顔に戻っていた。
皆の瞳がリシェールに集まり、再びリシェールは話し始めた。
「偶然に私はミッシェルが自分の母親だと知ってしまった。その原因になったのは、この旅の出発の前にお父さんからプレゼントされたリングだった。今思うと、お父さんの思惑通りに踊らされたんじゃないのかと思うのだけれど・・・」
そう言って、リシェールはクルベールを見つめる。
彼は黙って首を横に振る。
「そして、ある出来事がきっかけで、ミリアンからショウの事を聞いて彼の正体を知ったの。そして、ショウが2つの巨大な組織に追われていることも知ってしまった。それで、ミリアンに助けを求めたの、でもミリアンはミッシェルにすべてを話してミッシェルに力になってもらわないと無理だと・・・そしてお父さんの力が必要だと言われた。わたしは決心してミッシェルにすべて話して力を貸してくれるように頼んだの、ミッシェルはとても悩んていたんだけど助けてくれると言ってくれた。でも、お父さんにもすべてを話してお父さんの協力を得られたらという条件付きだったの。」
リシェール、クルベール、見つめあう二人。そしてそんな二人をミリアンとベアールが心配そうに見つめている。
「リシェール、お前がそこまで決心しているのならいいだろう、私もできる限りのことをしてあげよう。」
その言葉にリシェールは涙を流し、ベアールはテーブルの下できつく拳を握りしめた。
「ミッシェルはこの件は絶対にお父さんの協力が必要だと言っていたけど、お父さんて何者なの?」
あまりにもストレートな諮問にクルベールは目を丸くしていた。
「何者か?か・・・そうだな、簡単に言うとショウが暗殺したというコレット・プリスカの息子だ。」
今度はリシェールが目を丸くする番であった。
「コレットの息子ということは、ショウはお父さんにとって父親を殺した敵じゃないの!」
「そうだな、でもお前にとってはお祖父さんの敵になるんだけどな。」
「えっ、あっそうなんだ・・・」
困った表情で考え込む。
「はっはっはっ・・・。それはありえない、コレットは生きているよ、間違いなく。だからショウは記憶をなくして私の元にやって来たんだ。」
クルベールはリシェールに笑いかけた。
「コレットが生きている・・・。」
驚いてリシェールは言った。ミリアンもまた同じように驚きの表情を見せている。
「親子だからな、長い間あの人の事を見てきている。それにあの人が簡単に殺されるはずがないということを知っているだけだよ。」
「ショウを助けるために何をしてあげればいいの」
「それは、まず彼を見つけ出さなければならない。彼の今の状況が分からないし、彼が何をやろうとしているのかも知らないからね。それで、2つの組織に追われていると言っていたが、一つはプリスカとして、もう一つは・・?」
「ノアール、サヴァランの裏の組織です」
ミリアンは真剣なまなざしでクルベールを見つめている。
「サヴァラン!?・・・それは・・・・」
クルベールとベアールの視線が絡み合う。
「やっかいだな・・・」
ベアールは静かにグラスの中に残った琥珀色の液体を飲み干した。そして音もなく立ち上がり部屋から姿を消した。
「ミリアンの情報では数日前まではリヨンにいたことは確かなんだけど。」
「リヨンか・・・思い当たる所があるから明日の朝にでも連絡してみよう。とりあえず今日はこの辺にして続きは明日にしよう。」
そう言って部屋を出るとクルベールはまっすぐに地下にあるカーヴに向かった。そして、カーヴの壁のくぼみに手を突っ込みひねりながら引っ張ると、壁が動きその向こうに空間が現れた。その空間は5メートル四方の秘密の部屋で、所狭しと最新式に通信システムやパソコンが所狭しと配置されていた。
パソコンの前にはベアールが陣取りなにやら忙しげに操作を繰り返している。
「どうだ?」
「どうもやっかいですね、状況が・・・・・」
「そうか、しかし、この裏には必ず・・・・・・」
「たぶん、間違いなくそうでしょう、しかし、どちらが・・・・」
「今は、どちらとも言えなくなっていると思うが・・・・」
「とりあえず、ショウを見つけ出さないとどうしようもありませんね。」
「どうにかなりそうか?」
「どうにかしようとは思いますが、リヨンといえばヤン師父がおられます。そちらに当たられるのがいいかもしれませんね。」
「うーむ、明日店を休むわけにはいかないしな、早いうちにリヨンに行くことにしよう。」
ベアールは頷いた。
「明後日にでも行けるように段取りします。しばらく店を閉めるようになりますが・・・」
「致し方あるまい、ほっておくことではないからな。」