湿風
雨が降っている。どんよりと重い雲が空を覆い、夏の日差しを遮る。
快適に温度管理されたビルの中から窓ガラス越しに雨に打たれる眼下の街並みを眺めるアベル。
コレットの弟であるイゴールには二人の息子がいる。その一人がこのアベルであり、もう一人がアベルの双子の兄であるカインであり。
優秀で心優しいカイン、その真逆に存在するのがアベルである。
優秀でできのいい兄であるカイン、しかしその兄に勝る才能を持っていたのはアベルであった。カインは秀才で誰からも理解できる存在であったが、アベルは天才であった。それ故に誰も彼を理解することができなかった。この世で彼を理解する存在、それは双子の兄であるカインと父であるイゴールのみであった。
努力と才能でカインが手に入れる物を、アベルは才能だけで簡単に手に入れることができた。しかし、天才であるがゆえにその才能をシェアすることができなかったし、それが必要だと思ったことはない。
何事もあまりに簡単に手に入れることができ、世の中があまりにもつまらなくなったのは彼が15歳の時であった。
興味があるないに関係なく様々なことをやっては見たが、その結果が自分の想像を超えることはなく、優れすぎた才能が何事も容易く思わせる。その才能を持ち合わせたがゆえに人の心など分かるはずもなく、彼には全く必要なかった。
そんなアベルもまたイゴールにとってはかけがえのない息子であった。尊大な欠陥があるからこそ彼にとってアベルは目の離せない、余計にかわいいのである。
イゴールが自ら引退を決め、二人の息子たちにすべてを譲ったのは今からもう十年も前、息子たちが三十歳になる年であった。
この双子の兄弟は表裏であった。兄であるカインが表のサヴァラン社、弟のアベルが裏の顔であるノアールを掌握することになる。
息子には甘いイゴールであるが、そのあたりの判断は誤ることがなかった。
しかしながら、アベルはその裁量に不満であり、それを隠すことはなかった。裏の存在であるノアールは、その特異な存在のために公表することができず云わばサヴァラン社の子会社的な存在である。野心家で自己主張の塊のようなアベルにとってその立場、我慢しがたいものであっただろう。
しかし、父のイゴールに楯突くことはできない、あまりにも父イゴールの壁は高く巨大であった。
行き場のない心が彼を変え始めた。
カインは誰よりもそのことに気づいていたが何も言うことができなかった。それは誰よりも弟であるアベルのことが自分の事のように分かったからだ。
アベルの憤懣の心は、ノアールの事業拡大に邁進した。今では軍需産業にも力を入れ、本社であるサヴァラン社としての事業拡大にも着手しているのだが、アベルが社交界に登場することはない。それはカインの役目であった。
苛立ちはあった、しかし今では裏で兄のカインを操るフィクサーとなり表と裏両面を操る存在となったのだ。
カインはどうなったのか、彼もまた才能あふれる男であるが、欲がなかった、そしてそれ以上に最もアベルを理解できる男であった。そうであるが故に完璧に自分に与えられた仕事をこなした、そう、こなすことができたのだ。
アベルが窓から視線を外し振り向くとそこにはもう一つ同じ顔があった。アベルの双子の兄であるカインだ。
カインは姿勢正しくソファーに腰かけ、薫り高いコーヒーを優雅に飲んでいた。
「何か気がかりなことでもあるのか?」
落ち着かない様子のアベルの様子を見てカインは言った。
アベルは何も言わない。彼は部屋の隅にあるカウンターバーでグラスにコニャックを注ぐとカインの向かい側に腰かけた。兄のカインと違って砕けた姿勢で今にも寝っ転がりそうである。
アベルはカインが自分が何に困っているのか知っていることが分かっていて、カインもまたアベルが気にかかっていることを自分が分かっていることを分かっていることを知っている。双子の二人には多くの言葉は必要なかった。
「なんとでもなるよ」
忘れたころに質問の答えが返ってきた。
「今日は何の用なんだ。こんな朝早くに」
時計はまだ朝の八時を指していた。
「眠れなくてね」
「寝ていないのか?」
カインはため息をつく。いつも反抗的な弟の行動に心を痛めてきた兄のため息であった。
疑いの目でアベルを見るようになる。こういった時にアベルはどんな行動に出るか予想ができない。
「またヴェントにやられた。こんどはリヨンだ。」
カインは何も言わない。じっとアベルを見つめている。
アベルの瞳は、寝不足とアルコールの過剰摂取で濁り、口元はだらしなく緩んでいる。危険なシグナルである。
「どうするつもりだ」
「それは言わないよ。もう手は打っている。」
そう言うと、ソファーにごろりと横になる。
「眠い。カインの顔を見たら眠くなった」
そう言うと眠りについてしまった。
カインは立ち上がり、眠るアベルを一瞥すると部屋を出ていく。
寝息を立てて眠るアベルの口元が不気味に笑っていた。