雨風
広い執務室、大きな窓からはモンパルナスの街並みが一望できる。最上階のこの部屋はプリスカの聖域であり限られた者しか知らない場所である。
いら立ちを隠すこともできないほどアルベルトは疲れていた。体力よりも精神力に自信があったのだが、今回ばかりはさすがに辛い。思い通りに進まないのは何よりのストレスである。すべてを計画通りに進めるのが信条の彼にとっては人一倍辛い。しかし、今は泣き言など言っている場合ではない。様々な事柄が頭の中を駆け巡ってはいるが、どれも形作る前に消えてしまう。まるで、起きていながら夢を見ているようだ。いや、本当は眠ってしまっているんじゃないのか?
ドアをノックする音にハッと我に返る。結局、眠ってしまっていたのかどうなのか、真実が分かる前にアルベルトの脳からはそんなことは消えてしまっていた。
部屋に入ってきたのは、彼の右腕であるローランであった。
彼は部屋に入ってくるなり、大きくため息をつき、倒れこむようにソファーに身を埋めた。
真っ白のソファー、ローランの対面にはアルベルトが難しい表情ですわっている。
「十中八九マクベリーはヴェントに喰われた。追従者の二人も姿を消した。何者なんだヴェントとかいうガキは・・・」
怒りと焦りがローランの本性を剥き出しにする。
そんなローランの態度にはアルベルトは全く意に介していない。幼いころから長年の付き合いである、お互いに何もかも分かり合っている。立場上人前では取り繕ってはいるが、二人きりになれるこの聖域では、二人の関係は昔のままである。
疲れた表情のアルベルトをじっと見つめるローラン。
アルベルトは微かな記憶の中にある母親の暖かな手の温もりを思い出していた。精神的に不安定になると自然と思い出す。はっきりとした記憶ではない。アルベルトは幼いころに母親と離れてプリスカで生活することとなる。それが生き別れなのか死別なのか、祖父であるコレットは何も教えてはくれなかった。
大人になって分かったことは、コレットの息子、乃ちアルベルトの父は家業が嫌になり出て行ってしまったという事だけであった。
父親の本当の名前さえ知らない。だだ彼のと通り名はクーガーであった。彼の事は一族の中で禁忌であり、誰も話すことはない。そのためアルベルトが本当に心を許せるのは世界でただ一人ローランだけなのだ。
「考え込んでも仕方がない。要するに、行動するか、しないか、成功するのか、失敗するのか、どれがしかない」
「あれから情報はないのか?」
「ああ、ない。まさか、あんな情報が本物だとは思わなかった。」
それは、一週間ほど前にローランのプライベートメールボックスに送られてきた。ある一人の男の写真が一枚と、この男がヴェント いまはリヨンにいる という短いメッセージだけであった。
全く信用してはいなかったのだが、マクベリーと二人の情報部員を派遣した。
つい三日前に、ヴェントを襲撃する。という連絡を最後に、彼らは姿を消した。
「本当にマクベリーがやられたのか」
アルベルトが疑いたくなる気持ちもわかる。マクベリーは今プリスカで切ることができる最高にカード゛であったはずなのだ。
「ああ、間違いないだろう」
どっしりとソファーに座りなおして真剣な表情で言った。
「相手がヴェントという男に間違いないないのか?」
「それは何とも言えない、写真の男がヴェントだという確証はないからな。ただ一つ言えることは、マクベリーを喰える奴がフランス国内にそう簡単に存在されたんでは、俺たちは野垂れ死にするしかなくなるよ。
アルベルトは黙り込んだ。ローランの言う事は尤もなことであった。
ローランはアルベルトを何とか長にしなければならなかった。それは友との誓いであり、一族を愛するが故の決心であった。本来であれば、今はコレットを殺して漆黒の指輪を手に入れたヴェントと呼ばれる暗殺者が新しい長とならなければならない。ただ単純に強いものが長となる、そんな時代ではなくなってしまっていた。力だけで統治できるほど現代の世の中は甘くはない。
アルベルトには力だけで曲者揃いのプリスカを統治する能力はないが、組織を支配し管理する能力に関してはすば抜けた才能を持っていた。
実際コレットが長であったときもアルベルトが実質的に一族の運営を任されていたのだ。
コレットが口に出したことはないが、漆黒の指輪はコレットからアルベルトに授けられ恙無く代替わりが執り行われると、一族の誰もが思っていた。
しかし、実際はコレットが殺されて、漆黒の指輪が奪われてしまった今、アルベルトが新たな長になることに反対するものが現れた。
長老の首座であるニコラスである。ニコラスはコレットの右腕と言われた人物であり、アルベルトにおけるローランのような存在である。
彼は伝統を重んじ、今まで通りコレットを殺して漆黒の指輪を手に入れたヴェントが新たな長となるべきだと考えている。
ただ、この頑固な彼でも時代が変わり今まで通りではうまくいかないことも分かっていた。一族の今後のことを考えると、アルベルトが指揮を執り一族を導いていかなければならないと思っている。痛いほどそれを理解している。
しかし、漆黒の指輪に関してはそれとは別の件となるのである。まさに、それはそれ、これはこれといった切り離された考えのようである。だが、いかに年老いた頑固爺でもニコラスはただのバカではない、ニコラスがヴェントを見て判断し、プリスカの長に相応しくないとした時には自らの手によって漆黒の指輪を奪い、アルベルトに献上する腹積もりである。
しかしながら、コレットを殺した男相手に自分が勝つことなどまずできないであろうと思い悩む。そんなニコラスの心中など知らないアルベルトとローランは、漆黒の指輪を手に入れるために集団でヴェントを襲撃すると思い極めた。
とりあえずの計画のめどが付き安心したのか、ローランはソファーに寝転がり寝息を立て始めた。
アルベルトは一人、ローランの寝息を聞きながら沈みゆく夕日を眺めていた。