響風
フランス部に位置する第三の都市クレルモン・フェラン、ここは世界的に有名なタイヤメーカーであるミシュランの本社があり、街の北部には有名なボルビックがある。ここでとれたミネラルウォーターが世界に送られている。
街自体はさほど大きくはなく、近代都市という事でもなくどちらかというと閑静な住宅街という色が濃く静かで清潔な町である。
そんな街の中心部にある公園のかたすみにあるベンチに一人の日本人男性が座っている。
黒のTシャツにブラックジーンズという黒ずくめの服を着た彼は、中肉中背で目立つことのない顔立ちをした特に人目を引き付ける魅力はない男であるが、どこか一般男性にはない違った雰囲気を持っていた。
その男の名はショウといった。しかし、その名は彼の本当の名前ではなかった。この名は、彼がパリで働いていたレストランのオーナーの娘であるリシェールがつけたものである。
彼の本当の名前は、彼の記憶と共に消えてしまった。過去もそして自分自身が何者なのかさえ分からなくなってしまっている。
そして、彼は自分のそんな人生に抗うべく自分を探す旅に出た。
常に孤独である。
確かに親しくしてくれる人たちはいた、しかし気づいてみると一人ぼっちであった。
いつしかそんなことにも慣れてしまっていた。それが喜ばしいことなのかどうかは別として孤独に押しつぶされて、何もできないでいるよりもはるかにましであることは間違いのない事実である。
その公園の片隅になぜか、檻で囲まれたプールがあり二匹のオットセイが飼われていた。
二匹のオットセイは、その狭い檻の中をグルグルと飽きることなく回り続ける。他に何もすることがないからなのか、それともすでに病んでしまっているのか。哀しくも滑稽なそんな情景をただぼんやりと見つめている。
ふと気づくとその老人は、ずっとそこにいたかのようにショウのそばに立っていた。いつもなら人の気配に敏感なはずのショウが全く気付くことがなかった。しかし、その時ショウは不思議と気にかからなかった。
老人と目が合うと優しく微笑んでショウの隣に座った。
セミの鳴き声が響く夏の強い日差しの下、ベンチに並んで二人そろって檻の中のオットセイを眺めている。時折木々の隙間から流れてくる風が気持ち良かった。
オットセイは相変わらず狭い檻の中をグルグルと回り続けている。
ここに来て、小一時間ほど経つがオットセイたちは休むことなく回り続けている。
「人の人生と同じようなものだな」
何のことかと訝しい表情で老人を見ると、老人は両手を杖の上にのせ檻の方を見つめたまま言った。
「同じところをグルグル回って、自分自身では色々とやったつもりではいるが、気がつけばいつも同じ所にいる。・・・実につまらない。」
ショウは年寄りの独り言だと、聞いていないふりをしていた。
「そうは思わないかね」
老人はしっかりとショウを見つめて言った。
「そうですね」
ショウは気のない返事をしたつもりであった。
「私もこの世に生を受け80年が過ぎようとしている。いろんなことがあった。楽しかった、嬉しかった、悔しかった、苦しかった、悲しかった、それはその時々によって様々に違うものだった。かな時出来事でも、その時の自分の状況によって受け取り方が全く違ったものになることもある。そして、この年になって見ると不思議なもので、自分で感情をコントロールできるようになる。いや、できるようになるというよりは、するようになるんだろうな。一種の自衛行為かな。」
老人は一人話し続ける。
ショウは相変わらず回り続けるオットセイを見つめている。
「どんな時でも、どんな事にも常に冷静に対応しているんだ。長生きをしすぎたせいで感動とか驚きとかがなくなってきてしまう。体は衰えて、精神は朽ちてゆく、だから年を取ると無駄に動かなくなり考えなくなる。年を取るのは嫌なものだ、狡賢くなるばかりで・・・・」
老人は深いため息をついて、年輪のような皺に覆われた細い目で檻の中の回り続けるオットセイを見つめている。もう、ショウの存在など忘れてしまっているようだった。
「あなたはこの街に住んでいるのですか」
ショウは思わず、引き込まれるように声をかけていた。
老人はゆっくりとした動きでショウの方を向いた。
「私の名はイゴール、若き日本人、あなたの名は」
「私はショウと呼ばれています」
イゴールはゆっくりとうなづいて再び檻の方を見つめている。
「どこか安い宿を知りませんか」
「あんたどこから来たんだい」
「リヨンから・・」
イゴールはゆっくりとうなづく、視線は檻の中のオットセイに向けられたままだ。
ショウ立ち上がろうとした。
その時、いつの間にか自分の肩にイゴールの手がかけられていた。
うつろな瞳でショウを見つめている。
「どうかしましたか?」
何も言わず、イゴールは立ち上がり、ついておいでと杖を突きながら歩き出した。
とりあえずショウはイゴールに付いていくことにした。なぜこの時イゴールに付いて行ったのか、ショウには分からなかった。
イゴールの運転する古いシトロエン2CVに乗り、30分後町外れの古い洋館にたどり着いた。
「ここだ、古い建物だがまだまだしっかりしてる」
そう言うと、イゴールは車から降りた。
ショウも車から降りてカバンを手にイゴールの後について館の中へと入る。
相当古い建物だが、手入れが行き届いていて、思った以上に清潔な状態である。
「この広い館に一人で住んでいるんですか」
そう言った時、一匹の真っ白なフレンチブルドッグが荒い息を吐きながら尻尾を振り振りドタドタと走ってきた。ハァハァと荒い息を吐きながらイゴール足元を走り回る。
「わしの同居人のグロップじゃ」
優しい瞳で醜いグロップを見つめている。
「イゴールさんは何か仕事をしているんですか」
「ショウ、さん付けはなしだ。イゴールでいいよ。もう引退してゆっくりと老後を過ごしている身だ。今は友達が欲しい時だからお前もそう思ってくれると嬉しいんだが」
ショウは頷いた。
イゴールについては、色々と疑問に思うことがあるのだが、それ以上質問することはやめた。
その日から、ショウはイゴールの友達になり破格の待遇でここに住むことになった。
何もしなくてもいい、ただ彼と一緒に食事をし、たまに話し相手をするだけでいいのだ。家賃も食事代も光熱費もいらないというのだ。
彼が言うには、金持ちの暇つぶしらしい。だから、気にするなということだ。
ショウは煙に捲かれたようにいつの間にかそうなっている自分に不思議に思っていたが、気にしないことにした。