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風の中で  作者: 正和
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添風

 朝の日差しが大きな窓越しに部屋を光で包み、鳥たちの囀りが心地よく朝の訪れを教えてくれる。

 昨夜はミッシェルにお願いして用意してもらったパソコンを使い夜遅くまで調べ物をしていたため睡眠不足にもかかわらず、この清々しい朝の光を浴びると眠気なんか吹き飛んでしまっていた。

 リシェールはカーテンを開けると窓を大きく外へ押し開けた。柔らかな風が海の香りを運んでくる。

 眼下には赤い屋根の建物がめいいっぱい箱の中に詰められたチョコレート菓子のように無秩序に並び、視線を伸ばすとそこには真っ青なアドリア海の海原が見える。えさを求めて真っ白のカモメが、青い海と空の背景の中を優雅に飛び交っている。

 毎日味わっても飽きない爽快感がそこにはあった。

 ベッドのわきにある電話がチリリリーンと鳴る。時計を見るときっかり八時を指していた。

 リシェールは手早く身づくろいをして階下のダイニングへと向かった。ここに来てもう五日目、朝の電話はミッシェルからの朝食のお誘いである。

 階下のダイニングの七、八人はゆうに座れるテーブルには、ピンクのバラが飾られていた。

「おはよう、ミッシェル」

 リシェールはミッシェルの頬に軽くキスをした。

 ミッシェルは嬉しそうに微笑んでいる。

「おはよう、リシェール」

 大きめのカップにアツアツのコーヒーとミルクを注ぎ、リシェールに差し出す。

 そこに測ったようにマリーが朝食を運んでくる。

 今日のメニューは、カリカリの蜂蜜トーストにポーチドエッグ、パルマ産の生ハムとパルメザンチーズがたっぷりのったサラダ、柑橘系のフルーツのヨーグルトかけとかごいっぱいに詰められたクロワッサンである。

 初めは何が食べたいかわざわざ言っていたのだが、最近ではマリーに任せきりにしている。その方がマリーも作るのが楽しいだろうし、毎日色々なものが出てくるので楽しく食事することができた。

「今日はどうしたの?」

 リシェールはミッシェルの服装を見て言った。いつもならネグリジェの上にガウンを羽織っただけの姿で朝食を取っているのに、今日はジーンズにTシャツというラフな姿で食卓に着いているのだ。

「あら、おかしいかしら、似合っていない?」

「えっ、そんなことないよ。そうじゃなくて、ミッシェルがそんなラフな服を着ているの初めて見たから」

 リシェールがそう言うと、ミッシェルが微笑んで言った。

「あまりよく眠れなかったの?」

「ええ、少しパソコンつついていたら、いつもより眠るのが遅くなっちゃった」

 ミッシェルがリシェールの顔を覗き込む。

「少し疲れているみたい、大丈夫」

「ええ、大丈夫!!」

 元気よくそう答えると、にっこりと笑う。

「外を見て、今日はとってもいい天気」

 二人は窓の外を見る。

「ええ、本当にいい天気だね」

「今日は何をしようかしら?」

「えっ???」

 リシェールはミッシェルが言っている意味を理解できずにいた。

「一緒にテニスしない。はじめてなら私が教えるわ。」

 運動神経には自信があったが、やったことのないテニスと聞いて一瞬ひるんだが、ミッシェルと一緒にテニスができるという喜びのあまり

「もちろん、喜んで」

 思わずそう言っていた。

 ミッシェルはとても喜び、年甲斐もなく少女のようにはしゃいでいた。

「それじゃあ、しっかりと朝食を食べとかないとね!!」

 そう言って、クロワッサンにかぶりつく。

 そんなミッシェルを見ながら、この母親と再び出会えた幸せを実感していた。


 いつもよりたくさん朝食を取ってしまった二人は、食後の軽い運動がてらに中庭を散歩することにした。中庭といっても野球場がすっぽりと入るぐらいの面積があり緑の樹木が生い茂り、色々な花が地面を彩っている。

 真っ赤なバラのアーチをくぐりながらミッシェルが言った。

「このアーチはエリカの自慢の物なの、この庭はエリカが何十年もも時間と愛情を注いで作り上げた芸術品よ。私は幼い頃からずっとこの庭で遊んで、この庭を見ながら大きくなったのよ」

 ミッシェルのエリカに対する愛情の深さを感じ、エリカはミッシェルにとって母親以上の存在なのだと知った。ふたりの関係があまりに素敵で、少し嫉妬した。

 わたしも母とそんな関係が築くことができるのだろうか。

「なかなかゆっくりと話ができる時間ができずにごめんなさいね。でも今日はたっぷりとあなたのことが知りたいわ」

 先に歩くミッシェルがまぶしそうに空を見上げながら言った。

 振り返ったミッシェルは真剣な顔をしてリシェールを見つめる。

「こんなことでこれまでのあなたとの時間の穴埋めになるとは思ってもないし、母親としてあなたに許してもらおうなんて甘い考えで言っているのでもない、ただ、本当にあなたのことが知りたいの」

「ミッシェル・・・」

 お母さんと呼びたい気持ちが、口元まで溢れてきたが、リシェールはそう呼ぶことができなかった。まだリシェールの心の中で親子としての信頼関係がなくミッシェルのこともまるで知らないままにそう呼ぶことに抵抗があることは否定できなかった。

 二人は、中庭の端に建てられたバラの花に囲まれたキオスクに座り、眼下に広がる美しいアドリア海を眺めながら話し合った。

 リシェールは不思議な空気に包まれていた。ミッシェルが聞き上手だというのもあるのかもしれないが、今までに誰にも話すことができなかったことまで、ミッシェルには心を開いて話すことができた。

 父であるクルベールにさえ話さなかった、ショウ都の事さえすべて包み隠さず話した。

 ミッシェルにじっと瞳を見つめられると、今まで自分の心を取り囲んでいた殻がスーッと溶けていって、凝り固まった心が解放され暖かな毛布で優しく包み込まれているようであった。

「愛しているのね」

 ニッコリとほほ笑んで言った。

 リシェールは頬を赤らめながらしっかりと頷いた。

「素敵ね、あなたがショウの事を話しているときってとっても表情が豊かになる、そう、なんていうか、とっても、かわいいい!!」

 リシェールはそう言うミッシェルも相当かわいいと思いながらも、照れて俯いてしまう。

「ねぇ、お願いがあるの」

 リシェールは顔を上げミッシェルを見た。

 彼女の表情はどこかしら哀しげだった。

 そして、次の言葉を口にする決心のようなものが見えた気がした。

「あなたを、抱きしめてもいい?」

 ミッシェルは悪いことをした子供の用に上目使いで見つめながらそう言った。

 リシェールの心の奥に喜びとも哀しみとも、なんとも表現しがたい感情がポッと芽を出した。

 リシェールは自分の椅子を離れ、ミッシェルの膝元に膝間付きミッシェルに抱きついた。

 そんなリシェールを優しく抱きしめゆっくりと頭をなでるミッシェルのその顔は、今までとは一変して母親のそれとなり、リシェールはまるで母親に甘える幼い子供のようだった。

 長い空白の時間が作り上げた大きな裂け目にやっと細い糸が一本渡り、初めて二つの時を繋ぎ始めた。

「つらい恋をしているのね」

 リシェールを抱きしめる腕に力が入る。

「素敵な男の子なんでしょうね。でも、記憶がないなんて悲しい話ね、まるでドラマのよう。そして、彼が記憶を取り戻した時彼はどこへ行ってしまうのか…」

 パッと顔を上げたリシェールには戸惑いが見えた。そして、彼女自身分かっていたことなのに気づかないふりをしていた自分がいることに心が揺れた。

 優しくリシェールを見つめながらミッシェルは言う。

「つらい恋にはまってしまったのね。でも、もう誰にも止めることはできないのねきっと、あなた自身でさえ・・・」

 哀しみに濡れた顔をきつくミッシェルに押し付ける。

「そんなに悲しまないで、きっと彼は帰ってくるわ。私が保証する。それにあなたはもう一人きりじゃないのよ、よく見て、ほら、あなたには私がついているわ。きっと私があなたに役に立つ時が来るわ、いい、そう間違いなく」

 自身に満ち溢れたミッシェルの瞳に心が救われた気持ちになる。「「私にはミッシェルという心強い味方がいる」」そう思うと何でもできる気がした。

 その時、二人の会話が途切れるのを待っていたかのように一人の男が現れた。全身黒ずくめのスーツにサングラスをして颯爽とした身のこなしに、スーツの上からでも分かる鍛え上げられた肉体、誰がどう見ても只者ではないことがわかる。

 しかし、サングラスを取ると思いもよらぬ大きな済んだ黒い瞳の持ち主であった。

 ミッシェルに近づくと、耳元でボソボソと何か言っている。たまに何か言葉らしきものが聞こえるのだが、イタリア語を理解できないリシェールには何を言っているのか全くわからなかった。

 しかし、たった一言「サヴァラン」という言葉だけ聞き取ることができた。

 振り返ったミッシェルは

「本当にごめんなさい、急な用ができてしまって今すぐ出かけないといけなくなったの」

 明らかに曇った表情で言った。

 リシェールが見ても何か悪いことがあったのが分かる。それもあの「サヴァラン」が関係していることは間違いないであろう。

 足早にキオスクを立ち去るミッシェルの後ろ姿を見ていると、居ても立っても居られず追いかけるように屋敷へと向かった。

 リシェールはとりあえずミリアンを探した。

 いつもならやっと目を覚ましたぐらいの時間だ、まだダイニングにいるかもしれない、そう思ってダイニングに向かってみたが、ダイニングはすでにきれいに片づけられていた。

 マリーを見かけて、ミリアンを見かけなかったか聞いてみると、朝食も取らずに出かけてしまったらしい。

 落ち着かす、部屋をうろうろ歩き回ってみるが、どうしたらよいのかわからず、フゥーとため息をついてソファーに体を投げ出す。

 なんとかしないと、もうそろそろミッシェルも身支度を終えて出かけてしまうだろう。

 どうしようかしら、とゴロンとソファーに寝転がるとちょうど門の方から真っ赤なフェラーリが入ってくるのが見えた。

「ミリアンが帰ってきた」

 飛び起きて、玄関へと走る。

 ちょうどミリアンが玄関から入ってきたところだった。

「ねぇ、ミリアン話があるんだけど」

「ごめんなさい、今はダメ。姉さんはどこ?」

 焦った様子で言った。

 何かあったと直感的に分かったリシェールは思わず言った。

「サヴァランね」

 驚いてリシェールを見つめ、何か言おうとしたがミリアンは言葉を飲み込んだ。

「ジェリコか呼びに来たわ、でもまだ出かけてはいない」

 といった時、館の裏側からヘリコプターの始動音が鳴り響く。

 ミリアンがヒールの鳴らしてダッシュする。リシェールも無意識にミリアンに続いた。

 すごいスピードで駆け抜けるミリアンについてゆけず、あっという間に離されてしまう。

 館の裏口の扉をたたきつけるように開き、裏庭にあるヘリポートへと飛び出すミリアンの後ろ姿が見えた。

 続いてリシェールも飛び出すと、まぶしそうに上空で旋回するヘリコプターを見上げるミリアンがいた。

 リシェールも横に並んでそれを見上げた。

 ヘリコプターはあっという間に遠くへと消えてしまった。

「追いかけようにも、いくらフェラーリでもヘリコプターには追いつけないわ」

 そう言うと、ミリアンはリシェールにむかって

「お茶でも飲みましょ、何か話したいことがあるんでしょ」

 とほほ笑んだ。

 この辺の切り替えの早さは、見事というばかりである。

 ミリアンを見ていると爽快でなんとも心地よい。

 リシェールはミリアンについて館へと入って行った。


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