隠風
フランス南西部の森の中、そこは有名なvittelの採れる場所のすぐ近くである。森の中は風がざわめく音と小鳥たちの囀りだけがBGMのように流、木々の葉の間から注がれる陽の光が落葉で覆われた大地を照らしている。人里離れたこの地にはほとんど人が入ることはない。そんな場所に一人の老人が杖を突きながら歩いている。
ハンチング帽をかぶり、ブルージーンズのシャツにチェックのチョッキグレーのパンツに登山靴をはいた老人である。
目じりには深い皺が刻まれ頭髪はほぼグレーになっており年老いた感じはするが澄んだ瞳には力がみなぎっている。
老人はやっと目的の地に着いたとばかりにゆっくりと横たわっている倒木の上に腰を降ろす。
しばらくキョロキョロ辺りを見回していたが、全く動かなくなった。そして、彼の肩に小鳥が止まり足元をリスが通り過ぎてゆく。
彼は今人ではなく、森の一部となっているようである。
緑に染められた風が心地よく流れてゆく。
どれほど時が流れたのか、ハンターの格好をした男が音もなく近づき、老人の背後に立っていた。
男は何も言わずただ立って無表情の瞳で老人を見つめている。
身なりはハンターを装ってはいたが、その中身は全くの別物の匂いがした。只者ではないであろう。
俯いたままの老人の口元が微かに動いている。
男もまたほとんど口を動かすことなくしゃべっている。
読唇術を防ぐための所業であろう。
そして、男が老人に一枚の封筒を渡す。
老人は何も言わずそれを受け取ると静かに内ポケットに収めた。
男は振り返ると再び森の奥へと姿を消した。
するとそれを見計らったように、森の反対側からヒョコヒョコと小柄な老人がゆったりと歩いてくる。全身黒皮の衣装に身を包んだその老人はなぜかその恰好が最も似合っていると言えるほどフィットしていた。
足音も立てずに近づくその老人にもう一人の老人が目配せする。
歩きながらそれにこたえる老人。
これが二人の挨拶らしい。
二人は並んで倒木に腰かけた。
「会うのは25年ぶりか・・・」
そう言いながら黒皮の老人はタバコに火をつける。
もう一人の老人は俯いたまま何もしゃべらない。
「お互い年を取ったな、この私も年には勝てないらしい」
俯きながら何か言いたそうだが、決心がつかない様子を見て言葉を続ける。
「私が怒っていると思っているのかイゴール」
イゴールと呼ばれた老人が顔を上げる。しかし、視線は前方を見据えたままで二人の視線が交わることはない。
ため息をつきながら言う。
「いつもの事だ。今の私の仕事といえば自分の命を守るだけだ。あとはアルベルトに任せきりだからな」
黒皮の老人はそう言うと、イゴールの顔をじっと見つめた。
「アルベルトだ、覚えているか?」
「ああ・・・」
たった一言だけだがやっと口を開いた。
「気にしているのか、私が怒っていると・・・」
「すまなかった。コレット・・・・知らなかったとはいえ・・・・」
「もう済んでしまったことだ。それにそのおかげでこの年になって生まれ変わることができた。若返ったよ、今はいたずらな子供に戻っているよ」
遠い昔の子供のころのような笑顔を見せて言うコレットを見てイゴールも思わず笑っている。
長い間プリスカ一族の長という重圧を受けながら生と死の間に生きていたのが、自分が死んだこととなってそんなものをすべて投げ捨て本来の自分の姿を取り戻したのだ。
そんなコレットを見ると、イゴールも昔の時の流れの中へと戻ったようであった。
「久々に言ってもいいか?」
照れくさそうにイゴールは言った。
「なんだ・・・?」
「・・・・兄さん」
それを聞いたコレットは目を丸くした、そして照れた。
うつむいたままコレットは言った。
「そう呼んでくれるのか・・・・今でも・・」
「60年ぶりに兄貴を取り戻した気分だな」
「あの日以来、兄弟ではなくなってお前は出て行かずにはいられなくなった・・・」
「兄さんには何をしても勝てなかった」
コレットは俯いたまま微笑んでいた。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「また、連絡する」
コレットはそう言うと来た時と同じように木々の間へと足音もなく姿消した。
イゴールはそれまでと打って変わって厳しい表情で男から手渡された封筒の中にあった一枚の写真を見つめていた。