海風
海からの潮風が心地よく頬を撫でて長く伸びた髪が宙を舞う。
美しいエーゲ海の濃いブルーが心に安らぎを与えてくれる。
心を包み込むその風景に、リシェールは今まで悩んでいたことなどすべて忘れてしまっていた。
自然が生み出すその絶景の前では人間の悩みなど宇宙に漂う一粒のチリにも劣るものだと痛感する。
真っ白の船体にブルーのラインが入ったフェリーが汽笛を鳴らしながら港へとゆっくりと入ってくる。
海の女神と名付けられたそのフェリーはこの海の向こうに浮かぶ小さな島への唯一の交通手段である。
ゆっくりとタラップを渡りフェリーに乗り込む。
リシェールの2人ほど前美しい金髪をなびかせた長身の女性がいた。
リシェールもモデルをやっているので、そんな美しいスタイルの女性が気になる。その女性がフェリーに乗り込む直前にリシェールの方に振り返った。
リシェールの視線が凍りつく。
急に立ち止まったリシェールにぶつかった中年女性がイタリア語で何か喚いているが、リシェールの耳には届かない。
女性の瞳がその喧噪にひかれてリシェールの方を見つめる。
互いの視線がぶつかる。
リシェールの顔は驚きの瞳のまま、引きつった表情になっている。
そんなリシェールを見つめるその女性は、エーゲ海の女神のような優雅な微笑みでリシェールを見つめている。
リシェールはその女性にであったばかりであった。
そう、あの監禁された部屋の中で・・・・彼女の名前はジョルジェット。
ゆっくりとタラップを渡ってフェリーに乗り込むと、あの女性、ジョルジェットがその魅力的な笑顔でリシェールを待っていた。
「お久しぶりね。あなたも旅行なの?私たちよっぽど気が合うわね。」
「また、私を攫いに来たの」
緊張した、警戒した、そして怯えた口調で言った。しかし、その表情には立ち向かう勇気が込められていた。
「まさか! フフッ 今回はプライベートよ。あれ以来あんな仕事は辞めたのよ、色々あってね」
魅力的な笑顔のまま彼女は言った。
「あなたに嫌われているのかしら」
「多少はね、確実に言えるのはあなたのことは信用できないということかしら」
「よかったわ、本気で嫌われていたらどうしようと思ったわ。旅は道連れとも言うし仲良くしましょ」
そう言ってジョルジェットは腕を組むと強引にリシェールをラウンジの方へと連れて行く。
逆らおうにも、あの細い体のどこに、というくらいの力で有無も言わさない。
何のかんのとフェリーが目的地に着くころには2人は仲良くなってしまっていた。
リシェールはジョルジェットの魅力に惹かれていく自分に躊躇いながらも、少しずつ心を許していってしまう。
彼女の話題は豊富で何でも知っていて、まるで自分に姉ができたように思えた。一人っ子で育ったリシェールには初めての感情であった。
彼女と出会ったことで、一人ぼっちだと長かったはずの船旅もあっという間であった。
二人はそれぞれの荷物を持ち、タラップを渡り陸地へと上がる。
ジョルジェットは
「楽しかったわ、機会があったらまた会いましょう」
そう言って一人立ち去ってしまった。
リシェールは彼女と別れて一人ぼっちになると、急に心細くなってきた。
父の知り合いの女性が迎えに来てくれるはずなのだが、それらしき人は見当たらない。
これからどうしようか、と思い悩んていたその時、港の広場に場違いなほどの甲高いエンジン音を上げて真っ赤なフェラーリが飛び込んでくる。人ごみを縫うようにゆっくりとこっちに向かってくると、そのフェラーリはリシェールの傍らに止まった。
キュートな髪形をしたブロンドの30歳後半に思えるグラマラスな女性が降りてきて、サングラスを取りながら、
「あなたがリシェールね!」
そう言った。
白いブラウスに、初夏の日差しがまぶしく輝いている。
呆気にとられているリシェールを尻目に、勝手に荷物を取るとトランクルームに軽々とスーツケースを放り込み。
「さぁ、行きましょう」
その声に促されて、リシェールは助手席に体を預けた。
甲高いエキゾーストを残して、港から走り去る真っ赤なフェラーリ。助手席のリシェールは落ち着かない。慣れない高級車のバゲットシートに運転席でハンドルを握っているのは、今あったばかりの女性なのである。
「あの、・・」
自分の父親との関係を聞こうと口を開いた時、おもむろに彼女は言った。
「そうそう、自己紹介がまだだったわね。私は、ミッシェル、ミッシェル・クラウド。クルベールは古い友達ね、もう15年くらい会っていないかしら、久々に連絡があったんで驚いたのよ、本当に・・・。」
あっさりとこう言われてしまっては、それ以上二人の関係を聞くことができなくなってしまった。
「あなたがこんな素敵な女性になっていたなんて、もう本当に信じられないわ、あのクルベールもやるときはやるものだと感動したわ、もう本当!!」
ミッシェルはハイテンションで一気にまくしたてるようにしゃべる。
何か言うたびに、リシェールの方を向きながら話すのだが、一向にスピードを落とさないので、そっちの方が気になって仕方がなく、会話に気が向いていかない。
しかし、ミッシェルが自分が幼い頃のことを知っていることにびっくりしていた。
「私のことを知っているんですか」
「ええ、もちろん。あなたとは何度か会っているわ、もう15年以上昔のことだけど・・・。」
「そうですか・・・」
リシェールは自分の胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
この人ならもしかしたら知っているかもしれない。
「あの・・・私の、私の母の事は知りませんか?父からは私が幼い頃に亡くなったとは聞いているんですが、それ以上のことは何も教えてくれないし、写真も一枚も残っていないんです。」
少し興奮した口調で一気にまくしたてるように言った。
あまりの勢いに、ミッシェルは目を丸くしてまじまじとリシェールを見た。
うっすらと涙をためて、ジッと自分の方を見つめてくる。
まるで、おなかをすかした子猫が母猫を見つめているように見えた。
ミッシェルは軽くサングラスを押さえると、プッ、と思わず吹き出してしまった。
「そんな目で見ないで、そんな目で見つめられても私困っちゃうから・・・」
それからじっと前方をみつめたままミッシェルは何も言わなかった。
そして、フゥー、と一つため息をつくと
「もうすぐで私の家に着くわ。たっぷりと時間はあるわ、まだまだ、ゆっくりと話したいこともあるし・・・・まさか、明日にはもう帰っちゃうわけではないでしょ」
と言って、ニッコリと笑ったミッシェルを見ていると、切羽詰っていた自分が何かおかしく思えて、リシェールも、プッ、と思わず吹き出してしまった。
「何、なんなの・・・私おかしいこと言った!?」
そう言っているミッシェルを見て、笑いが止まらなくなる。
「クックッ・・ハハハ・・いえ、違うんです・・そうじゃなくて・・フフフッ」
車の中は苦しい笑い声と、それにうろたえるミッシェルのかみ合わない会話で、なぜか賑やかであった。
車は、港を見下ろせる小高い丘の上にあった。門から屋敷の玄関まで優に500メートルはあるだろうか、新緑の樹木と鮮やかな花たちで彩られた庭園に包まれるように、その白亜の館はひっそりと建っていた。
豪華ではあるが、つつましさを備えたその建物は、どこかこの持ち主の一面を表しているのであろうか。
真っ赤なフェラーリを玄関先に止めると、屋敷の玄関が開き一人の落ち着いた女性がツカツカとやってくる。
「おかえりなさいませ」
そう言って頭を下げる彼女の頭髪には、年齢を感じさせる白髪が多く見受けられた。
車を降りるミッシェルにすっと近づくと、耳元で何かささやき、何食わぬ顔でさっさっと車からリシェールの荷物を降ろし始める。
リシェールも手伝おうとすると、ミッシェルが振り返って言う。
「エリカ、あなたはそんな重い物を持ってはダメでしょ」
「ジェリコ、いないのジェリコ」
ミッシェルがそう叫びながら玄関を開く。
玄関と言っても日本家屋のようなものとは全くスケールが違う。
何処から現れたのかと思うほどのタイミングで一人の男が玄関から出てくる。
真っ黒のサングラスに短く切りそろえられた銀髪、そして日焼けした肌、全身にフィットしたスタイルのナポリ仕立てのサテンのスーツを着こなす身長は190センチはあろうかというがっちりとした体つきのこの男が、ミッシェルが呼んでいたジェリコであろう。
彼は無言のまま軽々とリシェールの荷物を持つと屋敷の中へと消えてしまった。
屋敷の大きさにびっくりさせられたリシェールであったが、まさかこの屋敷の中もっと彼女を驚かせるものがあろうとも思いもしなかった。
そして、リシェールはミッシェルに促されて館の中へと消えて行った。